遺書を書く少年:1「ある日のページから」



 辺りがすっかり暗くなったころ、少年は家に帰ってきた。ドアのノブに手をかけてちょっと考え、思い切ってそれを開けて見る。玄関に並んだ両親の靴を見て、彼は絶望的な溜め息をついた。
 台所には冷えた食事と、夫婦の沈黙が彼を待っていた。彼は黙って食卓に座り、冷えた夕飯をさもまずそうに食べた。
「トニー。一体どこへ行っていた。お前、最近塾に行ってないそうだな。」
 親父はまた酒を飲んでいるらしい。酒を飲んでいなければ、僕のことなど他人以上の他人としか考えていないくせに。この男は、酔った時だけ父親の振りをする。
「一体、月に幾ら振り込んでいるのか、お前知ってるのか?黙って金が手に入る訳じゃないんだぞ、誰のお陰で飯が食えるのかわかってるのか?」
 バカ。この前も自分の息子の学年を忘れていたくせに、こんな時だけ父親ぶるんじゃないよ。誰のお陰で飯が食えるかって?食わしてくれって頼んだ覚えはないよ。
「黙ってないで、何とか言えよ。え、行きたくないんなら、塾なんてやめちまえ。」
「自分が行けって、無理矢理行かせたんじゃないか。」
「何、それが親に対する口の聞きかたか!」
 彼はいきなり息子を殴った。息子は黙ったまま、ぞっとするような目つきで彼を見返す 。
「何だ…何だその目は!この野郎、もう一発殴られたいかっ!」
「あなた、もうやめて!」
「黙れ!大体、お前が甘かすからこいつはこんな甘ったれに育ったんだ!仕事なんか辞めて、妻らしく家庭を守ったらどうだ!」
「あなたのお給料だけじゃ、やってゆけないのよ!」
「何だと、また俺のせいにする気か!」
 張り手。物の割れる音。ヒステリックな泣き声。罵声。少年は部屋に逃げ込んで、内側から鍵をかけて耳を塞ぐ。
 激しい応酬の後、ドアが激しく閉まる音がした。また親父が家を飛び出して行ったんだろう。後には、母親のすすり泣く声が台所から聞こえる。ぶつぶつと呟やく文句、きっと親父を呪っているのだろう。いつものことだ、もう気にすることもなくなった。彼は机に向かい、いつものように日記帳を書き出した。

『今日、またSに出会った。あいつは出会うなり僕の顔を見て言ったんだ。「ようチビ、しばらく会わない間にまた背が縮んだじゃねぇか。」そして僕の前に立ちはだかって、さも馬鹿にしたような口調で言うんだ、「チビならチビらしく、俺の股を通って見ろよ。」って。
 僕が無視してよけて行こうとすると、奴は僕の肩を掴んで言ったんだ。「誰が横を通れって言った。俺の股をくぐるんだよ、チビ。」
 連中は僕の表情をみてニヤニヤ笑っている。僕はきっと泣きそうな表情だったんだろう。奴達にはそれが面白いんだ。他人の心を踏みにじるのが、最高の快楽だと思っているらしいんだ。
「股をくぐるだけだよ、それなら何もしやしねぇ。だが俺の横を通って行こうなんて考えてたら、お前は家に帰れないぜ。」
 僕は口惜しかった。こんな集団でないと何も出来ない馬鹿連中に、馬鹿にされるのが口惜しかった。口惜しいくせに何も言い返さない、自分が一番口惜しかった。 「おいS、こいつ、泣いちまったぜ。」
「仕方ねぇな。ほらさっさと俺の股をくぐって、家へ帰ってママに慰めてもらいなよ。俺は優しいから、股さえくぐれば何もしやしないよ。」
 僕はくぐったよ、口惜し涙を流しながら。バカに立ち向かうには、バカのふりをするしかしょうがないんだ。でないと、奴達はすぐ暴力に訴える。集団で行動して自分達の都合の悪いことは暴力で解決する。それが連中だ、サル山のサルだ。いや、サル以下だ。 「ほーら、こいつ、くぐったぜ。やっぱりチビだな。」
「さあさ、今日はさっさと家に帰ってママに抱いてもらいなよ。明日またくぐらせてやるからな。」
「ヘヘヘ、楽しみだな、トニー。」
「あばよ、楽しかったぜ。」
 他にも学校に生徒は沢山いた、だが連中は知らん顔だ。みんな自分の事しか考えない、他人の痛みなど考えない。教師?あんなバカ連中に一体何ができる?その生徒を呼び出して、「仲間をいじめちゃいけないよ。」なんて知ったような顔で説教するのが関の山だ。。冗談はやめてくれ、誰があんなサルバカと仲間なものか。第一、サルに説教が通じるとでも思っているのか。その説教の腹いせ分、100倍になってこっちへ返ってくるんだ。それがわかっていながらバカ教師に助けを求めるほど、僕は馬鹿でも甘ちゃんでもない。連中は、給料を貰うために教師をやってるだけだ。
 僕はバカ連中から逃げ出して、いつもの丘へと逃げるように走った。家に帰っても何もありゃしない、両親はいつも働きに出ている。そして夜はいつもの夫婦喧嘩。そんなに嫌なら、別れちまえばいいのに別れない。おふくろは言う、「お前だけが頼りだからね。」って。冗談は止してくれ、誰も産んでくれって頼んだ覚えはない。勝手に人を産んでおいて、頼りにされるこっちが迷惑だ。身勝手な、大人らしい考えだ。大したもんだ。そうでなきゃ、大人になんてなれないよな。
 例の場所に座って空を見ながら、僕はいつものように考えた。連中の前で死んでみせたら、奴達はどんなに慌てふためくだろう。「俺の股をくぐれ。」とSが言う、僕はニンマリ笑ってナイフを抜く。一瞬、奴の表情がこわばり、そして馬鹿にしたような笑みがこぼれる。このチビ、刺せるもんなら刺してみろ、って。
 僕は表情を崩さずにナイフを自分の腹に当て、ニンマリ笑いながら一文字に切り裂く。鮮血がほとばしり、連中は何が起こったのかわからずに青ざめる。僕は笑いながら自分の腸を引きずりだして、Sの顔にぶつけてやるんだ。
 新聞には中学生が自殺したって派手に書かれるだろう。校長は「おとなしい子でした」なんて、顔も覚えていない僕の為に涙を流して見せるだろう。両親は「息子を返せ」なんてもっともらしい事言いながら棺に取り付いて見せ、学校に巨額の賠償金を請求するだろう。そして、格好の理由を元に離婚して、互いにほっとするだろう。Sは…あのサルバカのSは何も感じないかも知れない。でも、僕の腸が顔にねっとりとへばりついた感触は、死ぬまでずっとSについて回るだろう。夜ごとに思いださせてやる。あのバカザルにそんな感性がないとしても、奴の目の前で笑って死ねるだけで僕は満足だ。』

 次の日学校が終わった後も、彼はいつもの場所でじっと空を眺めていた。丘の中腹には彼だけの聖域がある。通りからはちょっと陰になって見えなくて、近づいても注意しなければわからない。一見何の変哲もない岩の後ろがポッカリと空洞になっていて、そこに体を潜り込ませると、ちょうど頭だけ残して彼は丘と一体になる。そこから見えるのは、青空と地平線と宇宙港。一人で空を眺める時、彼は一時だけ幸福になれた。今、彼の頭上には、白い水蒸気の尾を曳きながら上昇する宇宙船の姿が小さく見えていた。

 宇宙船はいいな。いろんな所へ行って、いろんな旅を続けるんだ。広い宇宙、自由な空間。もう誰も見ていない、もう誰も邪魔しない。もう、誰も助けになんか来やしない。宇宙では誰もが一人だけ、完全に一人だけになれるんだ。
 でも、みんなどうして戻ってなんか来るんだろう。僕だったら2度と地球なんかには帰ってこない。一生、宇宙を放浪する旅人になって暮らすんだ。誰にも邪魔されない、誰にも縛られない自分だけの生活。連中が、みんな地上にへばりついて、くだらないテレビを見て笑って、顔も知らない親戚の死に泣いて、なけなしの遺産の相続で争っている間、僕は一人で旅を続けるんだ。もう、僕が死んでも誰も喜ぶ奴はいない。悲しいふりをして涙なんか流してみせる奴もいない。一人で生きて、一人で死ぬ。人間は、もともとそういう生き物なんだ。仲間だとか友達だとか、みんな一人がさみしいからそんな言葉でごまかしているだけなんだ。

 彼のお気に入りは宇宙港の一番端っこに済まなそうにたたずんでいる、古ぼけた中古の宇宙船だった。見るからに旧式のシルエット、ひびだらけで錆の浮いた外板、いかにも馬力のなさそうなエンジン。それでも立派に働いているらしく、月に何度かは港にいない日があった。
 今日、その船は宇宙港の片隅で、色褪せた外板に春の光を反射させて、再び主人と宇宙に出る日を待ちながらたたずんでいた。いや、よく見ると整備タラップが降りており、地上のケーブルが何本か接続されている。きっと、もうすぐ出港なんだろうと彼は思った。

 …前に一度だけ、あの船が昇って行くのを見たことがある。旧式独特のエンジン音を響かせ、太い噴射煙を曳きながら、力強く空めがけて昇って行ったっけ。旅をするならああいう船でなくっちゃ。最新型じゃない、中古で壊れる寸前の船がいい。船と運命を共にして、船と一緒に生きるんだ。いつどこで壊れても、船が壊れたところが僕の墓場になる。墓石に向かって罵る馬鹿も、線香や花を供えに来るおせっかいもいない。星の光だけに見守られて、船と僕の死体は孤独の宇宙をさまよい続けるんだ。

 その夜、彼は日記にこう記した。

『今日はSには会わなかった。だがまた明日がある。もう、あと2年もこんな生活が続くんだろうかと思うとゾッとする。誰が義務教育なんてクダラナイことを考えついたんだろう。多分、「大人」を大量生産したかった大人が考えついたことだろう。Sみたいなバカが増えれば、政治家や大企業は楽だろうもんな。だが僕は負けやしない。半年も学校を休んでいるYみたいに、逃げ出したりもしない。あれじゃ負け犬だ、ああなったらもう一生負け犬のままだ。負け犬になって、昼間も外に出られないような生活なんてまっぴらだ。
 親父は昨日家を飛び出したまま帰って来ない。どこへ行ったのか知らないが、お陰でこっちはゆっくり飯が食える。もう2度と帰って来なくても構わないのに、やっぱりあいつは帰って来るんだろう。
 喧嘩がないかわりに、今度はおふくろの愚痴が始まる。親父を恨み、結婚を呪い、そして最後は結局僕に辿り着く。「立派な大人になってよ、あんただけが頼りだから。」って。
 僕はあいまいな返事を繰り返して適当に相手をしている。僕は大人になんかなりたくない。増してや、両親が考えているような「立派な大人」には一番なりたくない。
 死ぬことは怖くなんかない。もう何度も自殺を考え過ぎて、それが当たり前みたいになってしまった。僕には生きているほうがよっぽど怖い。このまま生き続けて、親父やバカ教師と同じ大人になるのが一番怖い。』


※※※ 小説に登場している人物・団体・製品などの名称は全て架空のものです。例え同名のものが実在しても、本小説の内容とは一切関係ありません。 ※※※

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