計測室に入る前から、彼女は僕の足音を聴き分けていたようだった。僕がドアを開けたとき、既に彼女はガラスに鼻先を押しつけてこちらを覗きこんでいたから。すぐに話したくなる気持ちを抑え、僕は手順どおりに時間を記入し、計測記録機器をスタートさせてから彼女に声をかける。
「おはようメシア。今日の気分はどうだい?」
「おはようスティーブ。悪い気分じゃないわよ。」
「ということは、格別に良い気分でもないってことか。」
「まぁ、そういうこと。どうもまだヒレの動きがうまく協調しないのよね。」
強化ガラスの向こうで、彼女はゆっくりと旋回してみせた。その動きを見る限り、野生のイルカと別段変わりはないように見える。
「上手いもんじゃないかメシア。その動きなら十分じゃないか?」
「泳ぐのは意外と簡単なのよ、問題は止まるとき。急ターンすればいいことはわかったんだけど、その時のヒレの使い方がよくわからないの。」
彼女はプールを半周し、こちらに頭を向けてダッシュをかけた。ガラスにぶつかる直前白い腹を見せて身を捻り、ヒレをバタバタさせて停止した。
「ほら、ね。何度やってもこんな感じ。」
「危ない真似は止せ、頭でもぶつけたらどうする気だ?」
「距離はちゃんと計ってるわよ、エコロケーションの感覚はだいぶ掴めてきたんだから。」
超音波マイクからカチカチ、ギギギギという音が響き、オシロスコープにはきれいなエコー波形が写し出される。
「どう、上手いもんでしょ?泳ぐのより、こっちのほうが上達早いみたいね。」
「個体によって習熟差があるのかも知れないな。」
「個体と言えば、他の連中はどうしてるの?ここんとこ話聞かないんだけど。」
「あ、あぁ…。」
いまさら隠せることじゃない。いずれ知らせなければならない話だ。
「昨日、ウィリーが死んだ。」
「嘘?!」
「三日前から危篤だったんだ。ICUに入れて手は尽くしたんだけど、助けられなかった。」
「…。」
「ウィリーはいい奴だった。できれば、君と一緒に海に出る最初のカップルになって欲しかった…。」
彼女は力なく胸びれを垂らし、憂いを含んだ瞳で僕の顔を覗きこんだ。
「ねぇ教えて。彼の死因は?」
「…拒絶反応だ。」
彼女は噴気孔から一粒の泡を吐き出し、弱々しく頭を左右に振った。
「ウィリーだけじゃない、サンデイにもジャックにも拒絶反応が出てる。」
「容態はどうなの?」
「今のところ致命的ではない。だが、段々悪くなっているようだ。抗体は抑えてあるはずなのに…いまだ原因不明だ。」
「彼らがウィリーの後を追うのも、時間の問題という訳ね。…そして、私も。」
「弱気にならないでくれよメシア、君達は残された唯一の希望なんだから。」
「弱気になんかなってないわよ。一度は死んだ身体だもの、もう何も怖いものなんてありはしないわ。」
彼女は尻尾を力強く振って水面に駆け昇ると、大きな深呼吸をして戻ってきた。
「なぁメシア、この実験はやっぱり行うべきじゃなかったんじゃないだろうか。」
「今更何を言っているのよスティーブ、弱気になっているのは貴方のほうじゃないの?」
「うん…そうかも知れない。宗教なんか信じなかった僕だけど、こういう事態に直面すると神の存在を考えずにはいられないよ。」
「どういうこと?!」
「神が見放した種族は、おとなしく絶滅すべきなんじゃないかってね。」
僕は彼女を激怒させたかも知れない。だが、彼女は怒りを態度に表わさなかった。静かにプールを一周すると、もう一度鼻づらを窓に摺り付けた。僕も指先を伸ばして水槽に触れる。3インチ半の強化ガラスを隔てて、僕と彼女の魂が交流する。
「済まないパット、君を怒らせるつもりはなかったんだ。」
「パットとは呼ばない約束でしょ、スティーブ。」
彼女は悲しそうに鼻先を震わせた。
「パトリシア・ヨハンソンはもう死んだの。ここにいるのはイルカのメシアよ。」
そう…メシアはハイブリッド・イルカ。パトリシアの脳髄と遺伝子を組み込んだ、人間とイルカの中間生物。絶滅に瀕した人類が、その文化と歴史を未来に伝えようとした最後の希望。
世が世ならば神に対する冒涜、神の名を汚す悪魔の所行として全世界から非難を浴びたことだろう。だが種族絶滅という事実を前にして、そんな議論に何の意味があるだろう?人類が絶滅すれば、神も悪魔も仲良く一緒に消滅するのだ。我々が存在した事実も、人類同士が殺しあってまで築き上げた科学文明も、せめてこれだけは未来に残そうとした文化も…無人となった惑星の上で、誰に見られる事なく朽ち果て、やがて赤色巨星化した太陽に焼き尽くされ、新星爆発と共にバラバラの星間分子となって吹き飛ぶのだ。
…だが、それで良いのかも知れない。しょせん我々の文化や文明など、この宇宙では取るに足らないほどちっぽけなものなのだから。だがその事実を素直に受け入れ、あるがままに滅びを受け入れるには、我々はあまりに欲深く未練たらしい種族だった。何に対する欲なのか、何に対する未練なのか…失うものなど最初から持っていないことは承知のうえで、無謀で無駄な足掻きだとは承知のうえで、それでもこんな実験に最後の希望をつながざるを得なかった。
二人とも、きっと同じことを考えていたのだろう。しばしの沈黙のあと、メシアが先に口を開いた。
「スティーブ、次の移植実験の見込みはあるの?」
「今のところ、絶望的だ…技能を持った人間も減る一方だし、外部との連絡も取れなくなっている。」
「現在の残人口は?」
「全世界で推定五万。いや、もっと少ないかもしれない。」
「貴方は?大丈夫なの、スティーブ?」
「まだ大丈夫だよ。この研究所はまだ感染していない。」
努めて元気な声を装ったのだが、彼女には見抜かれたようだ。彼女は頭を振って、じっと僕の目を覗き込んだ。
「お互い、もう嘘はつかない事にしようって決めたでしょ?」
「…済まない。」
僕はシャツの腕をまくって彼女に見せた。かすかだが、見間違えようのないピンク色の斑点が浮き出ている。彼女は大きな黒い瞳で僕を見詰め…そして、鼻先をガラスに擦り付けてキュッと音を立てた。
「不思議ね。イルカの涙腺が退化しているのは知っていた筈なのに。」
まるで涙の代わりのように、噴気孔から小粒の泡が立ち昇る。
「海の中で泣けないことは知っていた筈なのに。こんなときに泣けない自分が、悔しくて仕方ないわ。」
「その台詞も記録に残しておくよ。」
「それ、冗談のつもり?腹は立っても、笑う気にはなれないわ。」
「…君はやっぱり君だよ、メシア。身体は変わっても、心は僕の大好きだった君のままだ。」
彼女は鼻づらでガラスをコツコツ叩く。済まない、パット。こんな事を言っても、君をもっと悲しがらせるだけだね。僕は眼鏡を外し、ぐしゃぐしゃになった顔を袖で拭った。こんな時に泣けないなんて、さぞかし辛いだろうね。
「いいんだ、心配しないでくれ、最初からみんな覚悟はできていた。心配なのは、むしろ君たちのことだ。」
「…。」
メシアは振り向いて、水槽の外に広がる大洋に目をやった。餌の取り方も、外敵からの防御法も、野生イルカとのコミュニケーションも、何もかもが準備不足だというのに。だいいち、彼女たちハイブリッドが生殖可能なのかすらも判っていないのに。
「判ってるよ。拒絶反応の出ている個体もいるし、まだ手術の傷が癒えていない個体もいる。でも、僕たちにはもう時間がないんだ。」
ボタンを押すと彼女の背後で強化ガラスの扉が持ちあがり、水槽と海が一つの水でつながった。他の水槽から泳ぎ出てきたハイブリッド達が、次々に彼女の側へ寄り添ってくる。サンディ、ジャック、ピート、マックス、クリップ、ホワイトポイント…。たった7頭の、人類に残された最後の希望。彼等は僕を見るのが辛そうだった。僕も彼等を見るのが辛かった。
「君にはリーダーになってもらうよ、メシア。」
僕はせめて、科学者としての冷静さを貫こうとしながら言った。
「個体のなかで、君が一番経験豊富で健康状態も一番良いんだ。大丈夫、君ならできるさ。さっき君も言ってたろう、もう怖いものなど何もないって。」
サンディ達が彼女の周りを泳ぎまわり、そうだそうだと言うように頭を振った。メシアもそれに応え、しばらく一団となって彼等と泳ぎまわる。スピーカーから響く彼らの控えめな会話を聞きながら、僕は異星人の言葉でも聞いているような気になっていた。
僕はふと考える。もしこの7頭が生き延びて子孫を残し、ハイブリッド・イルカの安定した集団を形成したら?かつて地上を支配した二本足の祖先が居たことを語り継ぐだろうか。僕達の掴んだ栄華と、僕達の犯した愚行と、自らを破滅に追い込んだ過ちを伝えるだろうか。それは彼等の遠い子孫にとってまるで、おとぎ話か神話のように響くのではないだろうか。
もしかして…ひょっとすると、僕達人類もまた、滅亡に瀕した種族が未来に残そうとした希望だったのではないだろうか。例えば 6500 万年前、実は恐竜たちは高度な文明と文化を持っており、絶滅に瀕した彼等の生命を新しい種族…哺乳類に託したのではなかったろうか。あるいは 35 億年前、この惑星に突如として発生した生命は、宇宙の彼方からもたらされた遺伝子から生まれたのではなかろうか。僕達が持つ宗教や天地創造の神話は、遥か昔に我々を作り出した存在が、未来に伝えようとした記憶の痕跡ではないだろうか…。
ガラスをノックする音に、僕は現実に引き戻された。メシアと彼女の新しい仲間達が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「大丈夫だよ、メシア。考えごとをしていただけだ、発作が出たわけじゃない。大丈夫だよ…少なくとも、今のところは。」
無理に笑ってみせると、彼女はますます悲しそうな顔になった。…彼女の身体は表情筋を持たない筈なのに、なぜこんなにも感情が伝わるのだろう?
「時間だよ、メシア。僕にできることはもう何もない。これからは、君たちが未来を開いてゆく番だ。」
「もう、行かなきゃならないの?」
「君も判っていた筈だろう?いつかはここを出てゆかなきゃならないって。それがたまたま今日になっただけの話だよ。…さぁ、行ってくれ。そして頼むから、二度とここに戻ってこないでくれ。」
彼女は何かを言おうとして、言葉を飲み込んだように見えた。言えなかった言葉が泡となり、陽光に輝きながら昇ってゆく。それが水面に達するのを見届けないまま、僕は水槽のガラスを遮るシャッターを降ろした。そして外につながっている聴音装置のスイッチを切ると、急にがらんとした計測室に空調の音だけが無機的に響き渡った。
僕は足早に計測室を出て自室に戻った。全身がひどく疲れていて、無性に眠りたい気持ちだった。もしかすると、例の発作が出てきたのかも知れない。だが、それはもうどうでも良い事のように思えた。いずれ避けられない結末ならば、それが今この瞬間にやって来たところで何の違いもないだろう。
ベッドに身体を潜り込ませ、電灯を消そうと手を伸ばすと…そこにパットの写真があった。まだ人間だった頃のパット。愛や人生について夜通し語り合ったパット。どんな事が起こっても、二人の間には必ず子供を作ろうと誓い合ったパット…。
「さよなら、パット。そしてさよなら、メシア。」
写真のパットに別れを告げると、僕は枕に顔を埋め、そして涙が枯れるまで泣きじゃくった。