LISA:9 「雄二の行方」



 携帯電話を保母に返して、土岐子はふうっと溜め息をついた。
「今のはどなた、旦那さん?」
「いえ。その…友達です。」
「そう。とりあえず、手分けして探しましょう。若林さん!あなたはバスで残りの子供達を送ってあげて。そうそう、この電話持ってて、何かわかったら連絡するから。」
 彼女はバスから降りると、どこから探したものかと辺りをきょろきょろ見渡した。どうやらこの辺りの地理には詳しくないようだ。彼女の心中を察した土岐子が声をかける。
「あの、吉田さんはここにいてください。雄太が戻って来るかもしれないから。私が心当たりを探してきます。」
「いえ、でも…。そうですね、済みません奥さん。こんなことになってしまって…。」
「いいんです、あなたの責任じゃありませんわ。」
 土岐子がそう言った時である。二人の頭上から鋭い叫び声が聞こえた。
「ママーッ、雄太くんはここよーっ!すぐに来て、早く!」
「瞳だわ…すぐに来てって、何かあったのかしら?!」
「奥さん、急ぎましょう。若林さん、バスを待たせてて!」
 瞳の時と違い、今度はエレベーターが1階に止まっていた。数字はゆっくりと6階に近づいてゆく。土岐子にとって、今日ほどエレベーターが遅いと感じたことはなかった。



 雄太は、瞳に肩を抱かれて玄関の前に立っていた。土岐子を見ると雄太はトコトコと駆けてきて、差し伸べた腕に抱き止められた。
「雄くん…。よかった、心配したわ…。」
「良かったですねぇ、奥さん。安心しましたわ。」
 ほっと胸を撫でおろす吉田保母。彼女は雄太の頭を撫でながら、ちくりと釘を刺すことも忘れなかった。
「勝手に帰っちゃダメじゃないの、雄太くん。今度からはね、ママが迎えにくるまで待ってなさいね。」
「ウン。」
「でもよかった、これで警察もいらないわね…アラいけない、あたし電話を若林さんに渡したままだわ!じゃ奥さん、済みませんが私はこれで失礼します。」
 保母の挨拶も上の空で、土岐子は雄太に優しく頬を押し付けた。自分にとってこの子がどれほど大事な存在なのか、改めて教えられたような気がしていた。
「ママ、ちょっと…。」
 瞳がおどおどと母親に声をかける。視線を上げた土岐子はそのとき初めて、瞳の背後に見知らぬ男性が立っていることに気付いた。
「あの…どなた様ですか?」
 そう言いかけて、土岐子ははっと息を飲む。雄太は母親を見上げ、にっこり笑って呟いた。
「ママ、パパ連れてきたよ。」



 敏夫を乗せたトヨタのバンは、マンションから3キロの地点で立ち往生してしまっていた。故障するのも無理はない。むしろ、エンジンがここまで持った方が不思議である。
「済まん、よく頑張ってくれたな。」
 彼は白煙を吹く車体をポンポンと叩くと、ふうっと深呼吸した。ここで待っていてもタクシーなど来そうにない。ヒッチハイクなどという不確実な手段に訴えるのも敏夫の主義に反する。彼は連れてきた犬に声をかけた。
「ベス、これからマラソンだぞ。」
 彼は尻尾を振ってそれに応え、さっと先頭を切って走り始めた。敏夫もベスの後を追って走り出す。不思議なことに、ベスは正確に蛭ヶ谷のマンション目指して走ってゆく。まるで敏夫の目的を知っているかのようだが、敏夫は本当の理由に気付いていた。
「ベスの奴、瞳の匂いを辿っているな。あいつも今朝この道を通っていったんだ。」
 慣れないマラソンに荒い息をつきながら、敏夫は猫を抱えてしょんぼり歩いている娘の姿を想像していた。



「あなた…。」
 土岐子は立ち上がり、ゆっくりと男性に近づいた。みすぼらしい服装、荒れた肌と無精髭。すっかりやつれてしまっていたが、彼は雄二に間違いなかった。土岐子は彼の手を取り、じっとその目を覗き込んだ。雄二も土岐子を見つめ返す。
「…お帰りなさい。」
 土岐子はそれだけしか言えなかった。雄二はにっこり微笑み、土岐子が思ってもいなかった言葉を口にした。
「はじめまして。」
 ハ・ジ・メ・マ・シ・テ…?!その言葉は、土岐子の耳に外国語のように響いた。彼女の知っている、いかなる再会の挨拶とも違うはずだった。土岐子の衝撃に気付かないのか、雄二は再び同じ言葉を繰り返した。
「始めまして。それとも、前にお会いしたことがありました?」
「雄二さん…?」
 土岐子の全身から力が抜け、握りしめていた雄二の手が滑り落ちた。瞳は雄太の肩を抱いて、緊張した面持ちで二人のやり取りを見つめている。
「私の名前を知っているのですね。それなら、前に会った人なんだ。どうも済みません、物忘れがひどいもので。」
 そう言って、雄二は傍らの雄太に目をやった。
「この子がどうしても一緒に来いって言うから、付いてきたんです。私を知っているみたいでしたし、それなら最近会った人に違いないと。済みませんが、お名前を教えていただけますか?」
「雄二さん、私よ、土岐子よ!どうしたの、私がわからないの?!」
「トキコ、さんですか。最後に会ったのはいつ頃ですか?それを言ってくれれば、メモに書いてあると思いますから。」
 そう言って雄二は、ポケットから薄汚れた手帳を取り出した。土岐子は遅まきながらもやっと気がつく。彼は記憶を失っているのだ!過去の記憶も、そして記憶を作る力も。
 雄二はメモを片手ににっこり微笑んでいる。それは、昔の雄二の笑顔ではない。何かが違う、何かが抜け落ちている。この笑顔は、記憶のない不安を隠すための薄っぺらな仮面なのだ。
「雄二さん。あなたは、私の夫です。ここにいる雄太の、父親です。わかりますか?」
 土岐子は胃の痛みを片手で押さえながら、一言一言を区切るように言った。だが彼は、メモを片手に首を傾げるばかりである。
「…わかりません、あなたが何を言っているのか。」
「あなたは、私の夫だったんです。ここに、この家に、一緒に住んでいたんです。どうか思い出して、お願い!」
 雄二は首を振り振り、片手で頭をボリボリと掻いた。
「頭が痛いなぁ…時々頭痛がして、何か思い出せるような気がするんです。でも、何も思い出せない。…済みません、少し休ませてくれませんか?」
 彼は手帳をポケットに戻すと、両手で頭を押さえてしゃがみ込んでしまった。土岐子はどんな言葉をかけていいのか思いつかない。押さえた掌の下で、彼女の胃がまた鈍い痛みを訴える。
 そこへ突然、一匹の犬が駆け込んできて瞳に飛び付いた。
「ベス?!どうしてここへ来たの??…パパ!」
「敏夫さん!」
 瞳と土岐子が同時に声を上げる。マラソンを終え、階段を必死の思いで駆け上がってきた敏夫は、想像もしていなかった光景に唖然としている様子だった。
「…敏夫。」
 雄二は振り向いて敏夫を視界に捕らえるや否や、彼の名前を口にした。土岐子は呆然と立ち尽くす。一体、この人はどうなってしまったのだろう。私のことは覚えていないのに、敏夫さんのことは覚えているなんて?!
「雄二…お前、帰ってきてたのか…。」
 敏夫が近づくと雄二は立ち上がり、にっこりと、しかし曖昧な微笑をたたえて言った。
「トシオさん、ですね。あなたの名前は覚えていました。きっと最近会った人なんでしょう。…私に、何かご用ですか?」
 敏夫はあっけにとられて口をポカンと開けた。次に、猛烈に腹を立てた口調で雄二を怒鳴り付けた。
「何言ってんだお前?ふざけてんなら承知しないぞ!」
「敏夫さん、落ち着いて!この人普通じゃないんです。」
「見りゃわかるじゃないかそんなの、誰がどう見たって異常だぞ。」
 止めようとする土岐子を押しのけて、敏夫は雄二ににじり寄った。雄二は曖昧な微笑の中に困惑の表情を浮かべている。敏夫はバカにされているような気がして余計に腹が立つ。彼は雄二の胸ぐらを掴みかねない勢いでまくし立てた。
「お前なぁ、一体今までどこで何してたんだ!お前がいなくなってる間、土岐子がどんなに苦労してたか知ってるのか?それが今頃ノコノコ現れて、訳のわからないことを…。」
「やめて、敏夫さんやめてっ!」
 土岐子は身体ごと飛び付いて雄二との間を引き離した。彼女を受け止めた敏夫ははっと気が付く。彼女の身体が氷のように冷たい。全身を小刻みに震わせている。
「雄二さん、記憶を失っているんです。私のことも、雄太のことも、何も覚えてないんです。119番を、救急車を、呼んでください…。」
「記憶を、失ってるって…でもさっき、俺の名前を…。」
「どうやら、人違いだったようですね。」
 雄二は困惑した表情で二人を見ていた。少なくとも、目の前で何が起きているのか、全然理解できていない様子だった。彼は腰を落とし、傍らの雄太の手を取って言った。
「坊や、ごめんね、こんなことになって。おじさん、すぐに帰るからな。」
「待って雄二さん、帰らないで!」
 土岐子は雄二の手を握って引き止めた。
「お願い、ここにいて、私と雄太の側にいて!記憶なんてなくてもいいから、思い出してもらわなくても構わないから…。」
「でも、私は…。」
 何か言いかけて、雄二は再び頭を抱え込んだ。
「また、頭が痛くなってきたました。済みません…すぐ、帰りますから…。」
 そう言って、彼はへたりとその場にしゃがみ込んだ。
「そんな所じゃなくて、部屋の中に入って休んでちょうだい。私たちなら構わないから、ね…。」
 土岐子は雄二の手を取って促したが、彼は手を振りほどいて途切れ途切れの声を出した。
「動きたく、ありません。もう、日が、暮れて、きたんですか、あたりが、暗く、なってきた…。」
「雄二さん、雄二さん!」
 崩れ落ちた雄二を抱き起こそうとして、土岐子は顔色を変えた。雄二は白目をむいてあらぬ方向を見ている。そして、鼻からしたたり落ちる一条の鮮血。
「いけない!」
 敏夫はそう叫んで雄二に飛び付くと、彼の口をこじ開けて指を突っ込んだ。
「何するの敏夫さんっ!」
「舌を噛まないようにするんだ、タオルかハンカチ持って来い!…イテテテ、ほら来たぞ、早く!」
「私タオル持ってくる!」
 瞳はそう言うが早いか玄関に飛び込んだ。
「頼むぞ瞳!土岐子、何ボッとしてるんだ、早く119番に連絡を!」
「は、はい!」
 土岐子と入れ違いに瞳がタオルを抱えて飛び出してくる。敏夫は雄二にタオルを噛ませながら、自分でも気づかぬ言葉を口走っていた。
「死ぬな雄二、こんな所で死ぬ奴があるか!死ぬな、死ぬんじゃないぞ…。」


※※※ 小説に登場している人物・団体・製品などの名称は全て架空のものです。例え同名のものが実在しても、本小説の内容とは一切関係ありません。 ※※※

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