LISA:8 「雄太の行方」
「なぁ、ベス。…瞳の奴、帰って来ないつもりかなぁ。」
その頃、敏夫は犬小屋の前にしゃがみ込んでいた。独りぼっちの部屋で電話を待っていると、不安で気が狂いそうだったのだ。誰でもいいから、不安を打ち明けられる相手が欲しかった。だが悲しいかな、奇人で通っている敏夫に親しい隣人はいない。彼が相談相手に選んだのは飼い犬のベスだった。ベスは今、哲学者みたいな顔で敏夫の目を覗き込んでいる。もと野良犬だった彼には、近所のおばちゃんよりも豊富な人生経験、もとい犬生経験がありそうだった。
「リズまでいなくなっちまうし、ボブの奴は相変わらずだし。お前と俺の二人だけになっちまうぞ、え?それでもいいのか?」
ベスはクーンと寂しそうな声で鳴いた。「そんなの嫌だよ、瞳ちゃんと別れたくないよ」とでも言いたげな表情である。
「そうだよな、俺だって同じさ。なぁ、俺は間違っていたのかなぁ。俺はみんなの幸せを追いかけていたはずなのに、知らない間にみんなを不幸にしちまったのかなぁ。」
ベスは敏夫を慰めようとするかのように、彼の頬に鼻づらを押し付けた。敏夫もベスの頭を抱え込み、彼の背中を何度も何度も撫でてやる。こうして抱き合って、暖かな体温とざらざらした毛の感触を感じていると、独りぼっちの不安が少しずつ消えてゆくようだ。こんな時は、猫よりも犬のほうが頼りになる。
「帰って来るよな、きっと。あの子は俺たちを見捨てたりしないよな、ベス。」
ベスはイエスと答える代わりに、敏夫の顔じゅうを優しく舐め回してくれた。そうしてくれると、何だか敏夫も安心する。「ただいまぁ、パパ」という元気な声が、今にも背後から聞こえてきそうな気になってくる。
「ありがとう、おかげで自信が出てきたよ。一つ借りができたな、ベス。」
彼がそう言って立ち上がろうとした時、ふとガレージの片隅の段ボールが目に入った。箱から突き出したカメラとマニピュレータ。いつか壊れて以来、ずっとそのままになっているロボットだ。敏夫はふらりと立ち上がると、吸い寄せられるように段ボールに近づいた。
「…こいつか、原因は。」
ベスは不安そうな表情で敏夫の背中を注視する。敏夫は工具棚に手を伸ばし、分解道具の入ったケースを取り出した。
「こいつさえ、こいつさえ…。」
ワンッと一声、ベスはいつになく鋭い声で吠える。しかし、振り向いた敏夫の顔は笑っていた。
「こいつさえ直せば、瞳はすぐ帰って来る。何だかそんな気がするんだ。バカバカしいけど、少なくとも気休めにはなるさ。なぁベス、そうだろ?!」
次に電話が鳴ったとき、敏夫は部屋でロボットの修理に没頭していた。いつもの居留守電話と違い、今日はあたふたと駆けつけて受話器を取る。
「はい、羽田です。」
「敏夫さん?私、土岐子です。」
「土岐子か。瞳は?あの子は、まだそっちにいるのか?」
「ええ。でも、雄太が帰って来たら私が送るわ。」
「でも…。何なら、俺が迎えに行ってもいいんだぞ。」
「無理しないの。怖いんでしょ、あの子と顔を合わすのが。」
「怖くなんかないさ!俺はあの子の父親だぜ?」
そうは言ってみたものの、敏夫は心を見透かされたような気がした。土岐子は澄ました調子でそれに応える。
「あらそう。何なら瞳を呼びましょうか?」
「いや、いい。あの子には帰ってからじっくりと話を…。」
「瞳、ひとみ!パパよ、あなたと話したいって。」
問答無用である。敏夫は思わず舌を巻く。土岐子の奴、こっちの考えはお見通しか。こんなに気が合うのに、どうして一つ屋根の下では平穏に暮らせないのかな。
「…パパ?」
「瞳か?!…今朝は、怒鳴ったりして済まん。パパは反省してる。」
「ううん、いいの。私が悪かったんだもん。」
「気を使わなくていいんだぞ、俺が大人げなかったんだから。お前だって…。」
ママが恋しいんだもんな、と言いかけて、敏夫は言葉を飲み込んだ。今これを言ってしまったら話がややこしくなる。
「お前だって、家出なんてして心配させやがって。ボブもベスも心配してるぞ。」
「ごめんなさい。リズと一緒に帰るから。」
「なんだ、エリザベスはお前が連れて行ったのか。」
「うん。ごめんね、パパ、心配させちゃって…。」
「いいから、いいから。今は帰って来てくれればいい。怒ったりしないから、な。」
「うん。…じゃ、ママに代わるね。」
「もしもし、敏夫さん?」
瞳は受話器を土岐子に渡すと、エリザベスを抱き上げて母親の横顔にじっと見入った。ママって美人だな、と彼女は思う。でも、ちょっと寂しそうな感じもするな。
「…うん、いいわよ、私が送るから。それにあなたの車、どうせ壊れたままなんでしょ?…ごまかしてもダメよ、またガラクタ一杯溜め込んでることくらい、ちゃ〜んとお見通しなんだから。」
ママはなぜ寂しそうなんだろう、瞳は考える。雄二おじさんが家出しちゃったから?それとも、パパと離れて暮らしてるから…?
「…そうね、雄太は三時には帰ってくるから、四時ごろになるわね、そっちに着くの。…ええ、心配いらないわ、待っててね。それじゃ。」
「ボブ、喜べ!瞳が帰って来るぞ、帰って来るんだぞ!」
電話を切った敏夫は、ボブが逃げる間もなくひっ掴むと、嫌がる彼に構わず部屋じゅうを踊り回って笑い声を上げた。ボブは夢中で敏夫の手から逃げ出すと、大慌てでタンスの隙間に逃げ込んでしまった。
「済まん済まん、あんまり嬉しかったもんでつい、な。」
照れ笑いをしながらも、敏夫は踊る心を押さえられない。つくづく単純な男だなぁと自分でもあきれるが、でも誰が何と思おうが嬉しいものは嬉しいのだ。
「よ〜し、エンジン120%全開だ。あいつが帰ってくる前にリサを修理しちまおう。瞳の奴、きっと驚くぞ!」
ボブはタンスの奥で目を細め、あまり賛成じゃないねという顔をした。敏夫はそんなボブの気持ちなど知る由もなく、猛烈な勢いでロボットの修理を始めるのだった。
壁の時計が三時を告げると、土岐子は瞳を連れて雄太を迎えに出た。蛭ヶ谷ハイツの中庭が保育園送迎バスの停留所だ。他のお母さんたちも子供を迎えに来ている。いや、よく見ると子供の手を引いている。どうやら、今日はバスが早く来ているようだ。
「すみません、岩沢ですけど、雄太を迎えに参りました。」
土岐子が保母さんに声をかけると、彼女は困ったような顔をした。
「それが、雄太くんは…。」
「何か、あったんですか?」
「いえね、一人で帰るって言うから、ママが来るまで待ってなさいって言ったんですよ。それが、ちょっと目を離している間に…。」
「いなくなったんですか?!」
「いえ、でも、その…。」
若い保母さんは動転していて要領を得ない。二人の様子を察して、年配の保母さんが近寄ってきた。
「どうしたんです、奥さん。」
「あ、吉田さん。いえ、雄太がいなくなったと聞いたもので…。」
「雄太君が?!若林さん、あなた面倒見てたんでしょ?」
「ええ、でも、ちょっと目を離したすきに…。」
「ちょっと目を離した、ですって?…何考えてんの、あんたは!」
若い保母さんは顔を真っ赤にして泣き出しそうな表情である。年配の保母さんはしかし、そんなことでは容赦しない。
「あなたねぇ、泣いて済むことだと思っているの!いいわ、ここは私に任せて。あんたはバスに戻ってなさい。」
彼女が目にハンカチを当ててバスの中に消えるのを、土岐子と瞳は気の毒そうな顔で見送った。
「吉田さん、何もあそこまで言わなくても…。それに、まだ雄太が行方不明になったと決まった訳じゃありませんわ。」
「いえ奥さん、こういうことは最初が肝心なんです。雄太君のことだって、楽観は禁物ですよ。脅かすわけじゃないですけどね、事故や誘拐は最初の5分が決定的なんですよ。」
そう言いながら彼女はポケットから携帯電話を出し、指先で素早くプッシュボタンを押した。
「…もしもし、警察ですか?こちら光ヶ丘保育園の者ですが、送迎バスの停留所で子供が一人行方不明になりまして…ええ、お願いします…。」
土岐子と瞳は顔を見合わせる。何だか大変なことになってきた。この保母の応対も、決して大袈裟とは言えないのかも知れない。土岐子はみぞおちのあたりに鈍い痛みを感じ、手でさすりながら唇を噛んだ。…あの時と同じだ。雄二が失踪した時と同じ痛みだ。父親の後を追って、雄太まで私を置いていってしまうのだろうか…。
「私、雄太君を探してくる!」
瞳は一声叫ぶと、脱兎のように飛び出した。雄太くんは家へ帰るって言ったんだから、きっとマンションのどこかにいる筈だ。
「待ちなさい、瞳!」
土岐子の呼ぶ声も瞳の耳には入らない。彼女はエレベータを待つのもじれったく、非常階段に飛び込んで全力で駆け上りはじめた。
電話が鳴ったとき、敏夫はリサの修理をほぼ終えていた。いつもは不機嫌な電話の応対も、今日ばかりはやけに愛想がいい。
「はいはい、羽田ですが。あぁ土岐子かい、もうこっちに向かっているのかな?」
「敏夫さん、私いま蛭ヶ谷です…お願い、すぐに来て、雄太がいなくなったの!」
一瞬の沈黙のあと、敏夫は電話を放り出してドアから飛び出した。けたたましい音を立てて階段を降り、積み重なったガラクタを放り投げて車のドアを開ける。異様な雰囲気を察したのか、ベスが鎖を一杯に伸ばしてけたたましく吠え立てた。
「ベス、お前も来い!」
なぜそんな気になったのか敏夫にもわからない。鎖を外してやると、ベスは迷うことなく助手席に飛び込んだ。敏夫はエンジンがかかることを祈ってキーを回す。イグニッションモーターはクォン、クォンと情けない音を立て、今にも止まってしまいそうだ。
「頼むぜおい、最後の御奉公だ。放ったらかしにしてたのは謝るからよ、今だけは動いてくれ、頼む!」
敏夫がハンドルに頭を押し付けたその時、ブルンと身震いしてエンジンに火が入った。敏夫はギアをローに叩き込み、ガラクタを突き飛ばしながらガレージを出た。車検が切れていることも、ガソリンが空っぽに近いことも忘れている。彼の脳裏には、救いを求める土岐子の声しか響いていなかった。
※※※ 小説に登場している人物・団体・製品などの名称は全て架空のものです。例え同名のものが実在しても、本小説の内容とは一切関係ありません。 ※※※
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