LISA:7 「瞳の行方」
もう昼過ぎになった頃だった。電話3回の呼び出し音のあとにブザーが鳴り、留守を伝えるメッセージの後にこんな言葉が聞こえてきた。
「…もしもし?お留守ですか?あの、羽田瞳さんが学校にいらっしゃらないのですが、病気でもされたのでしょうか?こちらは平田東小学校、5年3組担任の西田と申します。電話番号は…。」
いつものように居留守を決め込むつもりだった敏夫は、このメッセージを聞くと慌てて受話器に飛び付いた。
「はい、羽田です、瞳の父です。うちの娘が学校に行ってないって、本当ですか?」
「ああ、お父様ですか?実はそうなんですよ。お宅にはおられないんですか?」
「学校に行ってくるって、そう言って出ていったんですけど…。」
敏夫は信じられない気持ちだった。何かの間違いだろうと思いたかったが、とにかく事実は事実である。瞳が学校に行っていないということは、家出だか交通事故だか誘拐だか知らないが、とにかく大変な事態であることは間違いない。
「と、とにかく、学校に行ってないことは確かなんですね?」
「ええ。あのぉ、何か思い当たることはありませんか?」
「もしかしたら…今朝、ちょっとした喧嘩をしたんですが…。」
「喧嘩、ですか?!」
「いや、あの、ちょっと厳しく叱りすぎたかなと思いまして…。」
「とにかく、お嬢さんが戻られたら学校に御一報願えませんか?何かわかりましたら、こちらからも御連絡差し上げますので。」
「は、はい、もちろんです。…あの、警察に捜索願いを出したほうがいいんじゃないですか?」
「まぁ、しばらく様子を見てからにしましょう。御心配には及びませんよ、この年頃の娘さんにはよくあることですから。」
その口調の裏側に、「男の片親なら尚更です」という言葉がちらついて、敏夫は慌てて頭を振った。いかんいかん、こんな時に弱気になってどうするんだ!
「わかりました、とにかくお願いします。え、えーと、そちらの電話番号をお知らせ願えませんか?」
敏夫の狼狽ぶりに比べて、教師の態度は落ち着いたものだった。彼曰く、ここ数年毎年のように家出騒ぎがあり、そしてその度に何事もなく収まっている。だからそんなに心配するには及ばないと言うのだったが、敏夫は納得できなかった。ここ数年の事件が無事だったことなど、瞳にとっては何の保障にもならないではないか。
受話器を置いた敏夫は無性に落ち着かず、なぐり書きの電話番号のメモを持ったまま、意味もなく部屋の中をぐるぐる歩き回った。いつもならこんな時は煙草を吸って落ち着くのだが、今日はそんな気分にすらならない。ただ部屋の中をぐるぐる回っていると、まるで自分が動物園の熊のように、ありもしない出口を探してさ迷っているように思えてきた。くそ、俺は一体、何を一人でイライラしてるんだ!?
突然、ドアの向こうで、かさりと音がした気がした。敏夫の足がぴたりと止まり、全神経がドアの向こうに集中する。本当であって欲しいような、幻聴であって欲しいような不思議な期待。しばらく経って、今度はかさこそとはっきり聞こえた。間違いない、ドアの向こうに誰かいる。敏夫は一瞬、階段で膝を抱えて座っている瞳の姿を想像した。
「瞳か?」
返事がない。期待と不安で恐る恐るドアを開けると、薄汚れた黒猫が一匹ちんまりと座っていた。毛はボサボサで全身ほこりまみれ、鼻の頭には向こう傷。…ボブだ。
「何だ…お前かぁ。」
敏夫が手を伸ばすと、彼はついっと身をひねって身構えた。青い視線が上目づかいに敏夫を睨む。
「そんな目で見るなよ、相変わらずだな。瞳ならいないぞ。」
ボブは敏夫の言葉が信用できないのか、くんくん鼻を鳴らすと、さっとドアの隙間から部屋に飛び込んだ。そして一目散に瞳の部屋に飛び込むと、「あれ?」と首を傾げてあたりを見渡した。
「だから言ったろ、瞳はいないって。」
ボブは納得したのか、台所へ行くと冷蔵庫をガリガリ引っかいた。敏夫は憮然とした表情で戸棚から缶詰を出す。ボブはガツガツとわき目も振らずに缶詰を平らげると、瞳の部屋のタンスの上にストンと飛び乗り、丸くなって身体をペロペロ舐めまわした。
「いいなぁ、お前は何も心配事がなくって。」
肯定したのか馬鹿にしたのか、彼はフンッと鼻息一つ。
「本当、俺も猫になりたいよ。妻と離婚しようと、娘が家出しようと、猫にとっちゃ日常茶飯事だもんなぁ。いちいち悩まなくてもいいし、横からゴチャゴチャ言う連中もいないし。」
ボブは憐れむような目付きで敏夫を睨むと、大きな欠伸をして寝てしまった。敏夫はふと、朝からエリザベスの姿を見かけていないことに気がつく。ボブが帰ってきた引き換えに家出でもしてしまったのだろうか。全く、今日はみんなどうかしているよ。
隣の部屋を見ると、端末がピーピー音を立ててキー入力を要求している。バカヤロー、こんな時に仕事などできるもんか。敏夫は腹立たし気に電源を切り、頭を抱えて座り込んだ。こんな時に土岐子がいてくれたら、という妄想が一瞬頭に浮かび、大慌てでそれを否定した。そもそも、今朝の喧嘩が家出の原因じゃないか。一体、俺は今更何を彼女に求めているんだ…?!
突然電話のベルが鳴り、敏夫はバネ仕掛けのように飛び上がった。そしてドタバタと電話機に飛び付いて受話器を取ると、上ずった声で「はい、羽田です」と言ってごくりと生唾を飲み込んだ。
受話器の向こうからは何も聞こえなかった。「もしもし?」ともう一声。受話器は何も答えない。敏夫はふっと、前にこんな夢を見たことがあるような気がした。
「ト・シ・オ…?」
突然、受話器の向こうから聞き慣れない声がした。風邪でもひいたような、ひどいかすれ声。突然のことに、敏夫はあっけにとられて返す言葉もない。
「トシオ…。」
電話の主はもう一度繰り返すと、そのままガチャリと電話を切った。断続する発信音を聞きながら、敏夫は何ヶ月か前の深夜の出来事を思い出した。間違いない。何故か直感的にそう思う。今の電話と、あの深夜の電話は同一人物からのものだ。そして、恐らくそれは雄二に違いない。
放心状態の敏夫が受話器を置いた瞬間、再び電話はけたたましく鳴り響いた。彼は電気ショックにでも会ったかのように身体を震わせ、じっとこの魔性の機械を見つめている。…取るべきか、取らざるべきか。じっと考え、何度か手を伸ばしては躊躇し、そして思い切って受話器を取り上げた。
「もしもし?敏夫さん?」
電話の向こうから聞き慣れた女性の声。土岐子だ。敏夫は安心し、そして狼狽した。一体何だ、何がどうなっているんだ?
「土岐子か?俺だ、敏夫だけれど…。」
「あのね、今、瞳が家に来たんだけどね…。」
受話器を掴んだまま、敏夫の頭の中は真っ白になった。しばらくの間、土岐子が何と言っているのか、そして自分が何を答えているのか、全く意識の外の出来事だった。
「…ええ、そう。心配しないで。学校には連絡してあるの?そう…大丈夫なの?ずいぶん慌ててるみたいだけど。…うん、じゃまた電話するわね。それじゃ。」
土岐子は受話器を置き、しばらく額に手を当てて考えた。そして部屋から出てみると、瞳はエリザベスを抱いて玄関に立ったまま、じっと彼女を待っていた。
「さぁ、パパと一体何があったの?ママに話してくれない?」
土岐子の言葉に、瞳がきっと身を固くした。エリザベスが身をよじり、するりとその腕から抜け出す。
「パパから、何も聞かなかったの?」
「いいえ。瞳から聞いてくれ、ですって。」
瞳は母親と視線を合わせたくなくてうつむいた。エリザベスは彼女の足元にちょこんと座り、前足をペロペロ舐めては顔を洗っている。猫は気楽でいいなぁ、と彼女は思った。
「言いたくないのね。じゃ、今は聞かないわ。とにかくお上がりなさい、玄関にじっとしている訳にもいかないでしょ。」
土岐子は溜め息のように呟くと、髪を後ろで結いながらキッチンへ向かった。
「お昼まだ食べてないんでしょ?何か作るわ、待っててね。」
「…うん。」
瞳は聞こえるか聞こえないかの声で答えると、エリザベスを抱き上げて土岐子の後に続いた。そしてさも肩身が狭そうに、キッチンの片隅にたたずんでいる。その瞳に背中を向けて、冷蔵庫を物色しながら土岐子が聞いた。
「えーと、チャーハンでいいかな?」
「何でもいいわ。」
「じゃ、チャーハンね。すぐできるわ、座って待ってなさい。」
「このままでいい。」
「そう。…ま、好きにしなさいな。」
土岐子は適当に具を選びだすと、まな板の上で刻み始めた。静かな台所の中で、トントンとリズミカルな音が二人の間に響く。
「ママ、雄太くんは?」
「あの子は保育園よ。夕刻には帰ってくるわ。」
「…ごめんなさい。ママ、お仕事だったんでしょ?」
「いいのよ、気にしないで。今日は一緒にいたげるわ。」
私って甘いわね、と土岐子は自分が嫌になった。本当の親なら怒鳴り付けてでも学校へ行かせるか、敏夫の家に追い返すのが筋だろう。そう、「本当の親」なら!彼女はフライパンに油を引くと、思いっきり強火の火を起こして具を炒め始めた。
昼食ができ上がって、食卓に二人向かい合って座っても、何だか気まずい雰囲気は隠せなかった。瞳は肩をすぼめ、さも消えてしまいたいような態度である。土岐子は土岐子で、瞳にどんな表情を見せたものか決めかねていた。
「ねぇママ…私、今日ここに泊まってもいい?」
話を切り出したのは瞳だった。土岐子は自分が試されているようでドキリとする。
「だめ。お家に帰りなさい。気持ちはわかるけど、瞳のお家はパパの所でしょ?」
「でも、私帰れない…。パパに、パパにひどいこと言っちゃったから…。」
瞳はうつむいて、鼻と涙をすすり上げた。土岐子の胸がキュンとなる。だが、ここで妥協してはこの子のためにならない。
「いいわ、雄太が帰って来るまで一緒にいてあげる。そして一緒に謝ってあげるから、パパの所に帰りなさいね。」
「うん。でも、いい。一人で帰るから。」
「そんな、気を使わなくっていいのよ。仕事なんか一日休んでも構わないんだから。それに…。」
「いいの、私一人で帰る。だって、パパとママのケンカ見たくないもん!だから一人で帰る、送ってくれなくていい。」
土岐子は頭を一発ガンと殴られた気分だった。瞳はスプーンを右手に持ったまま、うつむいてしゃくり上げている。この子になんと説明したものだろう。土岐子は何とか言葉を見つけようとしたが、いい文句が浮かんでこなかった。
「そうだったの…。聞いてたのね、今朝の電話。」
その一言を口に出すのが精一杯だった。瞳は肯いてスプーンを口に運ぶ。チャーハンは妙にしょっぱい味がした。
※※※ 小説に登場している人物・団体・製品などの名称は全て架空のものです。例え同名のものが実在しても、本小説の内容とは一切関係ありません。 ※※※
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