LISA:6 「事件」



「お嬢さんですよ。」
 明るい看護婦の声。産婦人科の診察室。超音波透視装置に映った、命あるものの形。
「生まれるずっと前から性別がわかるなんて、何だか変な気分だわ。」
「今じゃ常識だよ。まったく医療も進歩したもんだ。」
 二人が見つめるスクリーンの上で影がうごめく。ここにいるよ、生きているよと、盛んに自己主張するように。
「この子、盛んにお腹を蹴るの。瞳よりオテンバな子になるわ。」
「今度は男の子が良かったのになぁ。オテンバならなおさらだ。」
 頭をかく敏夫。それを見て笑う土岐子と看護婦。
 …シーンが変り、ガレージを改装した自宅にいる…。
「理沙、リサ!これで決まりだ!」
 紙一杯に「理沙」と書いた半紙を持って、敏夫が勢いよく飛び込んできた。
「今度は俺が名前を決める番だぞ。理沙の理は知識と理性を、理沙の沙は優しさやしとやかさを意味するんだ。リサ…国際的にだって通用する名前だぞ、LISAって。」
「ほら、あんまり興奮しないで。やっと瞳が寝付いたところなのよ。」
「でも、どうなんだ。いい名前だろう、そう思わないか?」
「ええ、貴方がそう思うならね。…フフフ、でも、気が早過ぎなくって?まだ三ヶ月も先のことよ。」
 …またシーンが変わる。その数日後のことだ。無理をして残業に付き合っていた…。
「羽田さんは早く帰ったら?もう七ヶ月でしょ、無理しちゃいけないよ。」
「ええ、でも、これで最後ですから。」
 伝票の小さな字が、目に突き刺さるようだった。書類を片付けて机を立っても、数字の列が目の前を飛び回っている。いけない、気が遠くなる…。
「羽田さんっ!」
「救急車を!119番だ、急いで!」
「課長、動かしちゃ駄目です!頭の下に何か入れて、呼吸を楽にして。」
「いけない、下血してるわ!誰かタオル持って来て、早くっ!!」
 同僚の声が遠くなる…下腹の感覚が失せてゆく…。私の、私と敏夫さんの赤ちゃんが…。



 目が覚めた。暗い天井、窓からレースを通して射す月明かり。「夢だった…」そう気付いてほっとする。同時に、忘れられない過去が再び脳裏に蘇ってくる。一体、あれから何度この夢を見たことだろう。もう、6年も前の出来事なのに。
 土岐子は枕もとの時計を動かし、月明かりにかざして時刻を見た。2:14AM。物音一つ聞こえない、静かな夜だ。
 いや、今何か物音がした?!土岐子は自分の耳を疑った。気のせいかと思って寝ようとしたとき、また!彼女は静かに起き上がり、物音を立てないようにドアに寄った。
 物音は玄関から聞こえるようだ。カチャカチャとなる金属音。誰かが郵便受けでもいたずらしているのだろうか。それとも清掃ロボットがドアにぶつかっているのだろうか。
 あっ、鍵の開く音がした!続いて、ドアをゆっくりと開けたらしい。しばらくの間、外の物音がはっきり聞こえている。土岐子はドアのノブを握ったまま身動きひとつできない。やがて、金具の音を押し殺してドアが静かに閉まった。
 土岐子の背筋に悪寒が走る。誰かが家に潜入したのだ。一体どうやって鍵を開けたのだろう、チェーンまで掛けていた筈なのに。
 侵入者は玄関でしばらく様子をうかがった後、足音を忍ばせて歩き始めた。土岐子は自分でも驚くほど冷静に、相手の様子を探っている。だが足音がドアの向こうを素通りしたとき、彼女は突然雄太のことを思い出した。そうだ、あの子を守らなければ…!
「泥棒!ドロボーっ!」
 全身の力を込めた、あらんかぎりの絶叫が静寂を破った。心臓は早鐘のように鳴り、世界がぐるぐる回っている。彼女はなかば無意識のまま、ドアを開けて部屋から飛び出していた。目の前に、顔をマスクで覆った男が立っている。私はどうなってもいい、でも雄太だけは守らないと!!
 と、男は土岐子を突き飛ばし、疾風のようにドアから飛び出した。その時になって初めて土岐子は防犯ベルに思い当たり、手探りで探し出すと力一杯ボタンを押した。
「ジリリリリ…!」
 深夜のマンションにけたたましいベルの音が響き渡る。その音を聞いたとたん、土岐子は膝ががくがく震えるのを感じ、その場にへたりこんでしまった。
「もしもし、奥さん?何かあったんですか?大丈夫ですか?」
 ドアをノックする音とともに、隣の部屋の御主人の声がした。土岐子は辛うじて立ち上がり、ドアを開けて事情を説明した。
「泥棒が入ったんです、でももう大丈夫です。ええ…逃げて行きました。深夜に御迷惑をかけて申し訳ありません…。」
 防犯ベルは110番に直結している。やがて警察もやって来るだろう。土岐子は電話の受話器を取り、敏夫の部屋の番号を押した。だが、何故か途中で指を止め、そのまま受話器を下ろしてしまった。そして彼女は息子の安全を確かめるため、雄太の部屋の扉をそっと開いたのだった。



 敏夫がメールを受け取ったのは、徹夜明けの早朝のことだった。「…泥棒に入られましたが何も盗られず、私にも雄太にも危害はありません。今、警察が来るのを待っているところです…」
「何だって…土岐子の奴!」
 敏夫は裏切られたような気がして猛烈に腹が立った。自分はもう土岐子の夫ではなく、彼女の身に何が起きようと守るべき責任などない。そんなことはわかっている。頭ではわかっていても、感情は抑えることができなかった。敏夫は端末の接続を切るのも慌ただしく、受話器をひっ掴むと土岐子の家の電話番号を押した。
「…はい、岩沢ですが。」
「土岐子か?!俺だ、敏夫だ。大丈夫か、怪我なんてしてないだろうな。」
「メール読んだの?ええ、大丈夫。心配しないで、何も盗られた物もないし…。」
「これが心配せずにいられるかよ!」
 敏夫は受話器を握る手に力を込め、思わず激しい口調で言うのだった。
「何ですぐに電話してくれなかったんだ、何でメールなんかで済ませたんだよ。そりゃ俺の電話嫌いは知ってるだろうけど、それとこれとは別問題だろ。」
「だって、真夜中の2時だったのよ。迷惑をかけちゃいけないと思って…。」
「何でそう他人行儀になるんだよ!」
 しばらくの間、互いに相手の反応を探って沈黙が流れた。敏夫はつい本音が出てしまったことを気まずく思いながら、受話器を握り直して言葉を続けた。
「わかってくれ。僕にとって、君はただの離婚した元の妻じゃないんだ。君が再婚していようとも、あるいは僕が再婚したとしてもこの気持ちに変わりはない。」
「…優しさが重荷になることもあるって、そう思ったことはない?」
「何だって?」
「あなたの優しさが、私には耐えられないくらい辛い時があるのよ。優しくされればされるほど、甘えたがる自分に腹が立つの…自分が許せなくなるの。」
 土岐子は額にかかる髪をかき上げると、両手で受話器にしがみついて言った。
「理沙のことがあって以来、私はずっと過去に引きずられて生きてきたわ。取り返しなんてつかないのに、ずっと過去を取り返そうとしていたの。」
「もう忘れろよ。それに君のせいじゃない、あれは俺のせいだ。」
「ううん、許せないのは自分の心なの。あなたと離婚した後も、雄二さんと再婚した後も、そして彼が失踪した今になっても、私は未来を求める一方で、ずっと過去を取り戻そうとしていたの。いいえ、過去から逃げようとしていたかも知れないわ。あの頃に戻りたい、もう一度やり直したいという気持ちから。」
「だったら、俺ともう一度やり直せるよ。だから…。」
「ねぇ聞いて!誰だって、自分の未来は自分の手で切り開かなきゃならないの。私はずっと未来を他人に任せていた、世間知らずの子供だったわ。雄二さんがいなくなって、雄太と二人残されてから初めてそのことがわかったの。私の役目は雄太に未来を与えることだと思ってた、でもそれは間違ってた。雄太の未来は雄太でしか開けないわ。私にはそれを助け、見守ることしかできないの。」
「…」
「私は人を愛することで未来を手に入れようとしてばかりいた、でも、それはとんでもない間違いだったわ…。こんなこと、あなたや雄二さんにはわかっていたわよね?でも私おバカさんだから、こうなってみるまで気がつかなかったの。それに甘えん坊だから、優しくされるとその胸に飛び込みたくなるわ。でも、それじゃ同じことの繰り返し。だから私決めたの。私、しばらくは一人で頑張ってみる。」
 敏夫はただ無言で、じっと受話器を握りしめていた。
「もちろん、今でもあなたが好きなことには変わりないわ。でも、夫や恋人として好きにはなれないの。…私の気持ち、わかってくれるかしら?」
「…いや、わからないね。わかってたまるもんか。」
 しばらくの沈黙の後、敏夫は断固として言い放った。
「君は助けを必要としているはずだ、俺にはわかる。優しくされるとダメになるなんて、そんなの嘘だ!君は優しくされることを怖がってるんじゃないか?淋しくて、心細くてたまらないくせに、優しくされた後にそれを失うのが怖くて、優しさを拒んでいるんじゃないのか?」
「私、何もそんなことは…。」
 敏夫は言い過ぎたと思ったが、口は意思とは関りなく動き続けた。
「過去に引きずられるだって?それじゃ俺も瞳も、君の怨むべき過去の一部だって言うのか。だからつきまとうなって言いたいのか。冗談じゃないよ、人間、過去から逃げたりできるもんか。現実がある限り、過去はいつまでも付いて来るんだ。現実に向き合う力がないことを、過去から逃げることでごまかさないでくれ。君は、そんなに弱い女じゃなかったはずだろう。」
「私はバカな弱い女よ。貴方のように賢くも、強くも,優しくもないわ。自分を基準に物事を考えないで。」
「別に、俺は賢くも強くもないさ。人の事を言う前に…。」
「それじゃ、偉そうに人にお説教垂れないで。」
「ああ、勝手にするさ!君だって勝手にすればいい、過去から逃げたきゃどこまでも逃げてみることだな。俺は逃げ切れるとは思わないがね。」
 敏夫が全部言わないうちに、電話はプツリと音を立てて切れてしまった。断続する発振音を聞きながら、敏夫は全身に後悔が潮のように満ちてくるのを感じていた…結局、一年前と同じ結果になってしまった。あいつが実家に帰った時、もう二度と喧嘩なんてするまいと思ったのに。こっちへ帰って来たと知った時は、ずっとよき隣人として助けてやろうと誓ったのに…。
 敏夫が肩を落として静かに受話器を置いた時、ふと背後の気配に気がついた。いつの間からか、瞳が二人の会話をじっと聞いていたらしい。敏夫は狼狽し、視線を浮遊させながらあいまいな口調で言った。
「なんだ瞳、起きてたのか…。」
 瞳はこっくりとうなずいて言う。
「今の、ママでしょ。…ケンカしたの?」
「喧嘩なんかしてないよ。ちょっと意見の食い違いがあっただけ。」
「嘘!何を話してたの?大事な話?」
「何でもない、大した話じゃないさ。盗み聞きなんてお前らしくないぞ。」
「パパの方こそ、ママと内緒話なんてずるいじゃない。」
「大人には内緒の話だってあるんだ。」
「じゃあ、私は子供だから関係ないって言うの?」
「子供だからって、だからその…まぁ、そんなところだ。」
「そんなのずるいよ、ママは今でも私のママよ。パパはまた誰かと結婚するかもしれないけど、そしたらママはパパとは関係なくなるけど、それでもずっとママは私のママなんだから!たった一人のママなんだから!」
「うるさい!」
 敏夫は反射的に手を振り上げたが、振り下ろすのは思いとどまった。瞳は涙をこらえ、歯を食いしばって敏夫を睨みつけている。その表情は土岐子にそっくりだ。
「…さっさと着替えて、飯食って学校に行きなさい。このことは帰ってからゆっくり話そう。」
 瞳は何も答えず、くるりと背中を向けて自室へ戻った。
 実を言うと、敏夫もかなり狼狽していた。土岐子の言葉で心が千々に乱れている上にこの有様だ。瞳と親子二人で暮らすようになって以来、こんな親子喧嘩は初めてだった。彼は端末を顧客のコンピュータにつなぎ換えたが、気が動転していて仕事どころではない。しかし瞳と顔を見合わせると気まずくなりそうで、仕事に熱中しているふりを決め込み黙ってキーばかりやたらに叩いていた。
 瞳はあてこすりのつもりか、やたらに音を立てて支度をすると、朝食も取らずにバタンとドアを閉めて出ていった。いつもなら友達が迎えに来るまで待っているのだが、今朝はよっぽど気が立っているのだろう。無理もないさ、親父の俺がこの有様だもの。激情しやすいのは俺の血だな。そのくせ感情を押さえ込むのは土岐子の血だ。土岐子…。やめよう、心が乱れるばかりだ。
 それにしても、帰ってきたら何て言おう。「ママとケンカして、好きにすればいいって言いました」とは言えないな。まさか、嘘はつけないしな…土岐子そっくりのあんな目で睨まれたらなおさらだ。
 敏夫はどうしたらいいかも考え付かないまま、ただ無意味にキーを叩き続けた。そして、瞳も学校へ行って頭を冷やせば機嫌も直るだろうと、希望も込めて楽観的に考えていた。少なくとも、学校から電話がかかってくるまでは。


※※※ 小説に登場している人物・団体・製品などの名称は全て架空のものです。例え同名のものが実在しても、本小説の内容とは一切関係ありません。 ※※※

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