LISA:4 「無言」



 夢の中で、敏夫は電話機を追いかけていた。あと一歩で受話器に手が届くというところで彼の足は不意に重くなり、へなへなと地面に倒れ込んでしまう。精一杯伸ばした指の先で、電話機は彼を馬鹿にしたようにせせら笑う…。
 目が覚めた。暗い天井が見えた。そして、鳴り続ける電話の呼び出し音も。敏夫は眼鏡を寝床に置いたまま、柱を手で探りながら居間へと向かう。受話器を取ると「もしもし?」と一言、自分からは名乗らずに相手の言葉を待った。
 受話器からは風の音が聞こえ、時々かさこそと衣ずれの音もした。数十秒の間、互いにずっと無言である。もう一度「もしもし!」と今度は強い口調。電話の主は何か低くつぶやくと、プツリと音を立てて電話は切れ、単調なビジートーンだけが敏夫の響いた。特に意味はなかったが、彼は5回トーンを数えてから受話器を置き、寝ぼけた目をしばたいて寝床へ戻った。
「ねぇ、昨日の電話、誰からだったの?」
 翌朝瞳に聞かれるまで、敏夫は電話のことをすっかり忘れていた。うっすらとそんな記憶もあったが、あれは夢だったのだろうと軽く考えていた。
「ああ、そういえばあったな。時計は見てなかったが、何時頃だったかなぁ。間違い電話かいたずら電話だよ、多分。」
 電話嫌いの敏夫はごく親しい者にしか番号を教えず、通常の連絡は全て電子メールで行っている。電話も普段は留守録にしてあるのだが、昨晩はうっかり切り替えるのを忘れていたのだ。
「リサに電話の応対も教えといたらよかったね。」
「何だって?!馬鹿言え、何のための電話かわからんじゃないか。」
「そうかなぁ。便利だと思うけど。」
「だって、それじゃ留守番電話と同じじゃないか。」
「うーん、それもそうね。」
「当り前だ。面白がって何でもロボットにやらせるなよ。」



 瞳が学校に出掛けた後、敏夫はふっと心配になった。もしかしたらとても重要な用事があったのではないだろうか。例えば土岐子の家に強盗が押し入って、彼女が恐怖に震える指で賊の目を盗んで俺の家に電話をかけたとか…。
「まさか…しかし、もしもということがある。」
 敏夫は段々心配になって、居ても立ってもいられなくなった。ついに彼は我慢できなくなり、受話器をひっ掴むと土岐子の家のダイヤルを回した。
「一回、二回、三回…。」
 誰も出ない。まさか、本当に何かあったのでは?!敏夫の顔からすうっと血の気が引いた時、何者かが不意に受話器を取った。
「もしもし、土岐子か?俺だ、何かあったのか?」
「…」
「お前、誰だ!土岐子じゃないな?彼女に何をした!」
「誰?としおじちゃん?」
 敏夫はどっと全身の力が抜け、次に大声で笑いだしたくなった。彼は笑いたいのを必死でこらえながら、両手で受話器にしがみついた。
「あ、ああ、そうだ、僕だ、敏夫だよ。えーっと、その、ママはいるかな?」
「ママ、お仕事へ行ったよ。」
「あ、そ、そうか。だったら、帰ったら僕から電話があったって伝えてくれないかな?」
「うん。…おじちゃん、さっきなに怒ってたの?」
「いや、別に、何もないさ。ハハハ、それじゃ、ママによろしくな。」
 敏夫は震える手で受話器を置くと、引っくり返って腹がよじれるほど笑い転げた。しまいに息が苦しくなって、畳を叩きながらヒーヒー言っていると、騒ぎを察知したリサがカタカタ音を立ててやってきた。
「大丈夫ですか?救助を呼ぶ必要があれば答えてください。答のない場合、30秒後に消防署に連絡を…。」
 敏夫は手を伸ばして「キャンセル」ボタンを押すと、しばらく荒い息を吐きつづけた。笑いすぎて腹筋が痛む。俺ときたら、いつだってバカで早とちりなんだから。そりゃそうさ、あのマンションは警報システム完備だ、そう簡単に強盗なんて入れるもんか。しかし、土岐子でないとすると、あの電話は一体誰だ?…まさか…!!。
 敏夫は畳の上に座り直すと、電話機を手にとってじっと見つめた。あの電話が雄二だとすると、なぜ無言電話なんかかけたんだ?俺が電話では自分から名乗らないことくらい、あいつなら百も承知のはずだ。それに、なぜ土岐子ではなく俺のところへ?それとも、土岐子のところにも電話したのか?
 敏夫は段々苛立ってきた。たった一本の無言電話のために、こんなに悩まされることが腹立たしかった。第一、2年半もの間何の消息もなかった男が、深夜に無言電話などするものか?やはりあれはいたずら電話だったのだろう。
 夕方になって土岐子からのメールが届いた。雄太から話を聞いたこと、「何だか怒っていた」ことを説明し、「何があったのか知りませんが、くれぐれも短気は起こさないでください。私なら構いませんので、いつでも電話してください。」と書かれていた。
 敏夫は無言電話のことを言おうかとも思ったが、結局伏せておくことにした。「悪い予感がしたので電話をかけたら、相手が無言だったので勘違いしちまった。…強盗でも押し入ったのかと思ったんだ。俺ったら本当にバカだな、と自分でも思ったよ。雄太には代わりに謝っておいてくれ。」
 土岐子に返事のメールを送ると、彼はほっと安堵のため息をついた。とにかく、土岐子と雄太は無事だったんだ。だが敏夫は何となくすっきりしない気分で机に頬杖を突き、電源の切れた端末のスクリーンに映る自分の顔をじっと眺めていた。



 その日の夜、土岐子は敏夫のメールを受け取った。「相変わらずトンチンカンねぇ。」彼女は苦笑し、一体何が彼をこんな行動に駆り立てたのかを想像した。
 敏夫は昔からずっとこうだった。彼が土岐子の夫だった時も、恋人だった時も、それ以前に会社の先輩だった時も。初めて会った時、彼は会社の新人研修の担当者だった。
「えー、僕が新人研修を担当させて頂く、羽田敏夫です。」
 彼は居並ぶ新人を前に、堂々と胸を張って言ったものだ。
「まぁ、堅くならずにリラックスしていきましょう。どうせこんな研修なんて、屁の役にも立ちませんから。」
 この言葉が期待したほど受けなかったので、彼は怪訝そうに振り返った。その時の彼の表情は忘れられない。タイミング悪く戸口には、何とも言えない表情で人事部長が立っていたのだ。
 土岐子は懐かしい思い出に思わず微笑んだが、その表情はすぐに曇ってしまった。あの頃のことを思い出すたび、目に浮かぶのは雄二のことである。敏夫と雄二は無二の親友で、よく共謀してはいたずらや馬鹿騒ぎをやらかしていたものだった。二人から相前後してプロポーズを受けたときは困惑したが、やがて雄二は何も言わずに手を引いた。雄二とはそういう男だったのだ。敏夫は今でもこのことを知らないに違いない。
 離婚後しばらくは敏夫と気まずい関係になったが、その間心を支えてくれたのは雄二だった。寂しい夜には電話をくれ、楽しい時には食事に誘ってくれた。一人でいたい時には、何も言わなくても一人にしてくれた。内気でナイーブだが優しい雄二に、彼女は陽気であっけらかんとした敏夫とは別の魅力を感じ始めていた。
「雄二さん…。」
 一体、彼はどこで何をしているのだろう?ある人は彼は自殺したのだと言った。外国に逃げ出したという噂も聞いた。別の噂では、雄二は女を作って駆け落ちしたことになっていた。
 だが、彼女はずっと雄二を信じていた。確かに彼には弱い側面があったが、土岐子と雄太を残して一人で逝くほど無責任な男ではない。ましてや、逃げ出したり駆け落ちするような卑怯者では絶対にない。だが、彼女と同じように雄二を信じてくれたのは、敏夫ただ一人だけだった。今度は、敏夫が彼女を支えてくれる番だった。
 ナイトスタンドの淡い光の中で、土岐子は一人涙を流した。決して身の不幸を嘆いてのことではない。二人の男を愛し、彼らに頼り、その代償に不幸ばかり背負わせた自分が悔しかった。自分の浮気心の犠牲になった雄太と瞳がかわいそうでならなかった。不幸の種はいつも自分だ。結局、自分が一番悪いのではないか。
「ママ…。」
 ふと見ると、寝付いたはずの雄太が心配そうにナイトガウンの端を引っ張っていた。土岐子は急いで涙を拭う。
「ママ、どうしたの?どこか痛いの?」
「ううん、…。ごめんなさいね、ちょっと疲れてるだけなの。」
 彼女は雄太の手を取り、胸に深く抱きしめた。「ありがとう、雄くん。」この子の優しいところは、本当に雄二にそっくりだ。
「ママ、大丈夫だからね。雄くんはもうお休みなさい。」
「うん。…ねぇママ、僕ね、鳥さんの巣を見つけたんだよ。」
「そう…?」
 土岐子は唐突な言葉に一瞬戸惑ったが、すぐに彼の真意を悟った。これは、彼のとっておきの秘密だったのに違いないのだ!雄太は彼なりのやり方で、精一杯土岐子を慰めようとしているのだ。
「あした、保育園からかえったら教えたげるね。鳥さんのヒナってかわいいんだよ。」
「ええ。ありがとう、雄くん…さぁ、もうお休みなさい。ママも一緒に寝るからね。」
「うん。」
 雄太を布団に寝かしつけ、自分も寝床に入ってから、土岐子はもう一度そっと涙を拭った。たとえ離れていても、土岐子と雄太の心の中にはいつも雄二がいる。二人が彼の事を覚えている限り、いつかきっと雄二はこの家に帰ってくるはずだ。眠りに落ちてゆく中で、土岐子の想いはいつか確信に近いものへと変わっていった。



 数日後、敏夫は土岐子からのメールを受け取った。

「拝啓

 日に日に春らしくなってくる今日この頃ですが、いかがお過ごしでしょうか。私も雄太も元気です。この間とても楽しい時を一緒に過ごし、雄太もとても喜んでいました。またいつでも、瞳と一緒に遊びに来てください。
 先日、雄太が私にとっておきの秘密を打ち明けてくれました。何だと思います?公園の桜の木に、雀が巣を作っているんです。私、雀の巣って普通は屋根裏とか雨樋の間に枯れ草なんかを押し込んだものだと思っていましたが、雄太の見つけた巣は枯れ枝をきれいに丸く並べた可愛らしいものでした。多分、雀が人間と一緒に暮らす前は、みんなそういう巣を作っていたんでしょう。
 もうヒナもずいぶん大きくなっていて、親鳥はエサ運びに大わらわでした。巣立ちも間近に迫っているのでしょう。そんな鳥の姿を見ているうちに、親子の情愛は人も動物も変わらないんだなぁって、そう思いました。
 雄太はこの頃、とみに雄二さんに似てきました。優しさや思いやりだけでなく、観察力の鋭いところや粘り強いところ、話し方まであの人にそっくりです。もともと父親似の子供ですが、私のほうが雄二さんの面影を密かに求めているのかも知れません。
 ごめんなさい。どうしても手紙を書くと雄二さんのことばかりになってしまいます。こんなこと、貴方に言うべきことじゃありませんよね…。でも、心配はしないでください。私もようやく、雄太と二人で暮らしてゆける自信がつきました。雄二さんもいつか必ず帰ってくると、心から信じられるようにもなりました。だから、もう二度と貴方に御迷惑はかけません。
 犬や猫たちも元気ですか?どうか身体に気をつけて、貴方も仕事のしすぎにはくれぐれも御注意ください。

敬具」

 敏夫はスクリーンに映る字を、ぼんやりと何度もスクロールさせた。無意識のうちに煙草に火を点け、2、3口吸ってから灰皿にもみ消した。
「土岐子…。俺はちっとも、迷惑だなんて思ってないぞ。」
 敏夫には、彼女のメールがだんだん他人行儀になっているような気がしていた。例え離婚した今でも、土岐子は彼の初恋の人であり、愛した唯一の女性であり、そして恐らく愛することのできた最後の女性なのだ。
「クソ、雄二の野郎…。土岐子はお前のせいで段々、自分の殻に閉じこもっているんだぞ!」
 彼はやり場のない怒りを呟き、拳を固く握り締めた。そしてふと先の無言電話を思い出し、なぜかあの電話が雄二からのものだという気がしたのだった。


※※※ 小説に登場している人物・団体・製品などの名称は全て架空のものです。例え同名のものが実在しても、本小説の内容とは一切関係ありません。 ※※※

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