LISA:2 「雨の予感」
その週の日曜日、二人は蛭ヶ谷の家を訪れた。駅からマンションまでの風景は、10年近い歳月の間にも変わっていない。敏夫にとっては甘くほろ苦い思い出の景色、瞳にとっては淡い光に包まれた、幼い日々を過ごした風景だ。
やがて二人は、8階建てのマンション「蛭ヶ谷ハイツ」に辿りつく。少々古びた建物ではあるが、狂乱景気のさなかに立てられた粗製濫造マンションとは一味違った風格がある。二人はエレベーターに乗ると、6階へ昇るボタンを押した。ゆっくり回るデジタルの数字と、遠くなる地上の景色を見ながら、敏夫は昨夜の電話を思い出していた。
「もしもし、岩沢さんのお宅ですか?」
「はい、そうですが…。」
「土岐子かい?僕だ、敏夫だよ。ひさしぶりだね。」
「敏夫さん?珍しいわね、あなたが電話かけてくるなんて。待って、今絵のほうをつなぐから。」
彼女が画像開始ボタンを押すと、敏夫の電話のディスプレイには寝間着姿の土岐子が映しだされた。瞬間、変わっていないな、と思う。半年やそこらで人間が変わる訳もないのに。
「雄太君はどうした?もう寝てるのかな?」
「ええ。瞳も?」
「うん。…明日、そっちへ行くんだけどさ。子供達と一緒じゃできない話もあるし、今夜話しておきたかったんだ。」
「あなたらしくないわね。」
液晶ディプレイの土岐子の顔が微笑んだ。敏夫の電話嫌いは、彼女が一番よく知っていたからだ。
「わざわざ電話してくるなんて。メールでも言えないことなの?」
「いや、うん…。君の顔を見ながら、話したかったんだ。」
ポーン、というチャイムの音に、敏夫は現実に引き戻された。二人がエレベーターを降りたフロアでは、平べったい掃除ロボットが静かに徘徊していた。
「変わってないわね、昔とおんなじ。」
瞳が、今日何度目かのせりふを呟いた。半年ぶりだ、無理もあるまい。敏夫にとっても同じことで、彼は周りを見渡して昔を思い出した。
「昔はロボットじゃなくって、オバさんが掃除してたなぁ。アメ玉よく貰ったの、覚えてるかい?」
「うん。でも、ロボットじゃアメもくれないよね。私はオバさんの方がいいなぁ。」
そう言う瞳の足元を、カブトガニのようにロボットが這っていった。誰かが捨てたチリ紙を見つけると、一目散に走って吸い込んでしまう。T工業の製品だなと、敏夫は昔の癖で考えた。「盗難防止装置つき、いたずら厳禁!」の黄色い貼り紙が、妙に存在感を持って見えた。
土岐子の住む603号室のドアも昔のままだった。敏夫が昔自作したTVインターフォンも、整然と並んだサボテンの鉢も。どんな時でも、彼女はこのサボテンを手離さなかった。あの中古ガレージに引っ越した時も、そしてそこから出ていった時も。東北の実家に帰っていた間も、サボテンは彼女の部屋に並べられていたはずだ。
「いわさわ、ときこ。ゆうじ。ゆうた。」
瞳が声に出して表札を読み、敏夫はドアの前で戸惑っている自分に気付いた。(無理もない、半年ぶりだもんな。)彼は自分に言い訳すると、かつて自分が作ったインターフォンのボタンを押した。
「雄くーん。敏おじちゃんと瞳お姉ちゃんが来たわよー。」
「お邪魔しまーす。」
「おじゃましまーす。」
すっきりと片付いた玄関を通り抜けると、ミルクっぽい子供のにおいがした。会わない間に3歳になった雄太は、ずっと子供らしく成長していた。
「いやぁ、雄くん、覚えてるかな?すっかり大きくなったなー、ついこの間まで赤ちゃんだったのにな。」
「パパ、パパ?」
「雄くん、パパじゃないのよ、トシおじちゃんよ。」
「とし、おじちゃん。」
「わー、パパったらおじちゃんなんだ。やーい、おじちゃーん!」
「やかましい!余計なお世話だ、このひよっ子娘が。」
「ふふ、相変わらずね。ごめんね瞳、この前の誕生日に一緒にいられなくって。」
「ううん、いいの。慣れてるもん私、こういうの。」
土岐子は胸をチクリと刺されるような気がしたが、瞳は気付いていなかった。
「パパだって、いっつも約束忘れるんだから。クリスマスだって、お誕生日だって。そうだ、お正月を忘れてた時もあったわよ。」
「仕方ないだろ、年末年始と4月前は業界の掻き入れ時なんだ。俺が嫌でも、客が納期納期って騒ぐから…。」
「言い訳は男らしくないわよ、パパ。いつも自分で言ってる癖に。」
「…ったく!最近ますますお前に似てきたぞ、こいつは。」
「だって親子なんだもん。当ったり前よね、ママ。」
「え、ええ。」
敏夫は口をとんがらせて黙り込んだ。口喧嘩でこの二人に勝つことは絶対に不可能だ。
「おねーちゃん。」
見ると、雄太がミニカーを持って瞳の袖を引っ張っている。
「ん?一緒に遊ぶの、雄くん?」
雄太はこっくりとうなずき、トコトコと子供部屋に駆けていった。「じゃぁ、私あの子と遊んでるから。」とその後を追う瞳。3歳の男の子相手の遊びなど面白かろうはずがないが、どうも瞳は子供の世話をするのが楽しいらしい。世話好きなところも土岐子に似たな、と敏夫はその背中を見ながら考えた。
「よかったわ、二人とも元気そうで。お茶でも飲む?」
「ああ。」
ダージリンのティーパックで入れた紅茶。土岐子はミルク、敏夫はレモン。二人向かい合ってお茶を飲みながら、しばらく話題を探しあぐねていた。
「あの子、言葉が遅れてるみたいなの。」土岐子は雄太の話を持ち出した。
「人の言うことは全部わかるみたいなんだけど、自分からあんまり喋らないのよ。」
「それじゃ、友達ができにくいんじゃないか?」
「そうなのよ。保育園の保母さんに聞いても、いっつも一人で遊んでるんですって。」
「ふーん。」
父親に似たのかな、と口に出そうになり、彼は慌てて紅茶で言葉を飲み込んだ。しかし、その必要はないようだった。
「雄二さんに似たのかしらねぇ。」
土岐子は言って、ふっと深い溜め息をつくのだった。
「なぁ…。あの話、考えてくれたかい?」
敏夫はもぐもぐと、きまり悪そうに切り出した。夕べの電話の続きだ。『また一緒に暮らしてくれないか?』と。答の見当もついていたのだが…。
「ごめんなさい。」
彼女は紅茶のカップを静かに置く。
「あなたの気持ちは有り難いわ。でも、雄二さんがどうしたかもわからないのに…。明日にでも、いや、今日にでも帰ってくるような気がするの。」
予想通りだ。これ以上、話を蒸し返しても仕方あるまい。
「わかった。もうその話はしない。でも、僕の気持ちだけは覚えていてくれ。これからもずっと、そのつもりでいるから。」
「ええ。雄二さんが帰ってくるまではね。」
土岐子は無理に冗談を言って顔をゆがめた。それを見る敏夫の心が痛む。あの事件以来、敏夫は彼女の心からの笑顔を見たことがない。彼は…岩沢雄二は、妻子をここに残し、一体どこで何をしているのだろうか?
それは3年前の冬のことだった。敏夫の数少ない親友であり、かつての同僚でもあり、そして土岐子の2番目の夫であった雄二は、突如として失踪してしまったのだ。
始めは単なる発作だと誰もが考えた。彼は常に山のような仕事を背負い込んでおり、その年も8月からほとんど会社に泊まり込みで、納期の10月を過ぎても仕上がらない物件を不眠不休で指揮していたのだ。「俺は何をやっているんだ、もうすぐ子供も産まれるのに!」と毒づく彼の姿を、同僚の多くが目撃している。もともと脆弱だった彼の精神は、発狂寸前にまで追い込まれていたのだ。
ノイローゼと不眠症に悩まされていた雄二は、医者の勧めで睡眠薬と精神安定剤を断続的に服用していた。医者は「一番の薬は、職場を代えることですけどね。」とも言っていたのだが。雄二自身も自分の限界を認めており、「この仕事が終わったら会社を辞める」と宣言し辞表まで提出していた。もっとも、雄二の辞職願いはこれが初めてのことではなかく、さほど重要とは思われなかったようだ。失踪から一週間が経過し、事態の重大さが明らかになるまで、辞表は人事部長の引き出しに放り込まれたままだった。
失踪から一週間が経つと、さすがに会社も本格的に心配しはじめた。二週間目には警察がやって来た。一ヶ月後には尋ね人の広告を出したが、彼の行方は杳として知れなかった。徹夜で仕事をしていた彼は、誰も知らぬ間に姿を消してしまったのだ。机の上には「ちょっと休んできます」とだけメモが残されていたが、いくら何でもちょっと休むにしては長すぎた。…そして、それから3度目の春になっても、彼の消息は手掛かりさえも掴めないままだ。
『今度も長くなるぞ。お前も身体に気を付けてな。』土岐子は、最後に聞いた雄二の肉声を思い出していた。『俺達は情報化社会って奴の人柱だよ。』敏夫は、雄二の自嘲的な口癖を思い出していた。二人の間に重苦しい沈黙が立ち込め、冷えてしまった紅茶のカップに手を触れるのさえもがためらわれた。
「ねぇ、パパ、パパ?」
瞳が駆け込んで来なかったら、二人はひどく気まずい思いをしたに違いない。幸い、瞳はその場の雰囲気には気付かずに、いつもの朗らかさで敏夫に尋ねた。
「ねぇ、雄くんは私の弟でしょ?」
「え??」
「だって、雄くん私のことお姉ちゃんって言うんだけど、だったらあの子は私の弟じゃないの?」
「弟?ちょっと待てよ、えっと…。」
敏夫は機械には滅法強いが世間の常識には滅法うとい。中でも、親戚関係は最も苦手な分野に属する。叔母、姪、従兄弟、色々な血縁関係が、彼の頭に浮かんでは消えた。
「ねぇ、どうなの?」
「うん、ゲンミツに言えば弟じゃないな。多分…。」
「敏夫さん!」
突然、土岐子が彼の言葉を遮った。
「瞳、雄くんは瞳の弟よ。そうでしょ、ね?」
「え…?」
「そうなの、パパ!?」
土岐子のウィンクに、敏夫はやっと何が問題なのかを理解した。彼の頭は常に論理的に厳密であることを求めており、その点人間相手の会話は少々心許ない。
「あ、ああ、そうだ。雄は瞳の弟だよ、義理の弟だ。」
「義理?ギリって一体どうゆうこと?」
「義理とは人情的にとか、情状上の理由によりって言う意味だ。ん?待てよ、何かおかしくないか?」
「もー、パパったら訳のわからないこと言わないでよ!」
土岐子はやれやれと肩をすくめて、更に続く「ギリの弟」に関する瞳と敏夫のズッコケた会話に耳を傾けた。まるで離婚する前の、一家団欒のひとときが戻ったようだった。
「ありがとう。今日は楽しかったわ。」
帰り際、土岐子は雄太を連れて見送ってくれた。
「こちらこそ。な、瞳。」
「うん。雄くん、また遊ぼうね。」
「また、うちにも遊びに来てくれよ。雄太君も一緒にな。」
敏夫は多分実現しないだろうことを、社交辞令として付け加えた。
「そうだ!ねぇママ、この間ロボット拾ったのよ。リサって名前つけたんだ。」
瞳は戸口で振り返りながら、早口でそのあとの言葉を継いだ。
「今は壊れててまだ動かないの。でもパパが修理してるから、きっと次に来る時までには動いてると思うよ。」
「そう…良かったわね。」
「さぁ瞳、行くぞ。」
「じゃぁね。バイバイ、ママ、雄くん。」
「さよなら。ほら雄太、お姉ちゃんにさよならしなさい。」
「ばいばい、お姉ちゃん。」
地上へ降りてゆくエレベーターの中で、敏夫はふっと溜め息をついた。彼は胸ポケットから長らく喫っていなかった煙草を取り出すと、しばらくためらった後再びポケットにしまった。
「…なぁ瞳。ちょっと、どこかに寄ってかないか?」
「うん。」
パパはさみしいのかな、と瞳は考えた。やっぱりママと一緒に暮らしたいのかな。私だってそうしたいもん。でも、雄二おじさんのこととか、何か難しいモンダイがあるみたいだし。…ママは、一体どう思ってるんだろう。
駅へ向かう道の途中、敏夫は公園の角を曲がって、喫茶「旅人」と看板の出ている喫茶店のドアを押した。小ぢんまりとした店内はSLや電車の大判写真で飾られ、カウンターの向こうには精巧な鉄道模型が並んでいる。
二人が窓ぎわの席に向かい合って座ると、アルバイトらしい高校生くらいの女の子が注文を取りに来た。
「いらっしゃいませ、御注文は。」
「僕はコーヒー。あ、ホットで。お前は?何にする?」
「えーと、これ!チョコレートパフェ。」
「またぁ。デブになるぞ、お前は。」
「いーじゃん、放っといてよ。」
敏夫は苦笑すると、「じゃ、その2つお願い。」とウェイトレスに注文した。
瞳はメニューを読んだり壁の写真を眺めたりしていたが、やはり鉄道模型が気になるようだった。精密機械と見れば目の色を変えるあたり、やはり敏夫の娘である。
実際、それは見事な模型だった。8600系から始まってC64やE10に至るまで、日本のSLがHOゲージでずらりと並んだ様は圧巻である。知識のある者が見ればそれは市販の模型ではなく、店のマスターがコツコツ作り上げた手製の逸品であることもわかるだろう。瞳にはそこまではわからなくとも、マスターの打ち込みようだけはひしひしと伝わったらしい。
「ここのお店の人、電車が好きみたいだね。」
「ああ。だけど、SLは電車じゃないぞ。」
「知ってるわよ、それくらい。もうっ、パパったらホント理屈っぽいんだから!」
「理屈っぽいのは生まれつきだ。」
「産まれる前から理屈っぽかったんじゃないの、パパは。」
「お前こそ、口から先に生まれてきたんじゃないか?」
敏夫は笑いながら今度こそ煙草に火を点けると、懐かしくいがらっぽい煙を胸一杯に吸い込んだ。コーヒーとパフェが運ばれてきて、瞳は目を輝かせて大きなグラスにかぶりついた。
敏夫は娘の姿を見ながら、土岐子とよくこの店で待ち合わせたことを思い出していた。…あれは、何年くらい前になるのかな?敏夫には思い出せなかった。いや、過ぎた年月のことなど思い出したくなかった。
この子もやがて女らしくなって、恋人なんかと知り合って、そして自分の手から離れてゆくんだろうなと敏夫は思った。こうやって「デート」することもできるだろうが、今のような二人の関係には戻れない。瞳はもう彼の無邪気な娘ではなく、誰かの恋人だったり、誰かの妻だったり、誰かの母親だったりするのだろう。
(父親ってのは、辛いもんだなぁ…。)
そう思うと、敏夫には砂時計から滑り落ちる砂のような一瞬一瞬がたまらなく、いとおしく感じられた。
(いかん、いかん。こんな時にこんなことばかり考えてても、心がクサクサするばかりだ。)
「ねぇパパ?」
「ん?」
「雨、降りそうだね。」
今朝はきれいに晴れていたのだが、今窓の外は重たい雲に覆われ、湿った風が公園のポプラの葉を揺らせていた。
敏夫は灰の長くなった煙草を灰皿にもみ消すと、湯気の冷めたコーヒーカップに口をつけた。
「早く帰ったほうがいいかもな。」
やがて、二人は店を出て駅へと向かった。二人とも、言いたかったことを結局言えずじまいだった。
※※※ 小説に登場している人物・団体・製品などの名称は全て架空のものです。例え同名のものが実在しても、本小説の内容とは一切関係ありません。 ※※※
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