LISA:11 「それぞれの記憶」



 リサの一件をきっかけに、雄二の記憶は少しづつ戻っていった。途切れ途切れに語られる彼の口から、失われた過去が次第に明らかになっていった。最近彼が近くのアパートに住んでいたこと、夜勤のアルバイトを転々としていたこと、拾ってきたロボット(これがリサだ)に身の回りの世話を任せていたこと、ロボットが故障してから生活に困っていたこと…。
 しかし失踪の原因は何だったのか、失踪してからそのアパートに来るまで一体どこで何をしていたのかはわからない。尋ねても雄二は頭を押さえて黙り込んでしまう。
 土岐子はもう、無理に思い出させようとはしなかった。彼が同じ屋根の下に住んでくれるだけで充分だと思っていた。雄二はいまだに土岐子と雄太の関係を理解できていない。時々「あなたは確か敏夫の奥さんですよね?」などと尋ねてくるので、その度に自分は妻であり雄太は息子なのだと説明しなければならない。彼女はまるで、子供がひとり増えたみたいだわと思う。
 だが、雄太がこれから確実に成長してゆくのに対し、雄二がこの先どうなるか全くわからない。将来に不安がないと言えば嘘になるが、土岐子は雄二のことで悩んだりしなかった。雄二を待ち続けた三年の間に、全てを受け入れる心の準備ができていたのかもしれない。
 最近、土岐子は雄二を連れて敏夫の家を訪ねることが多くなった。雄二は敏夫のことは割合とはっきり覚えており、彼に会うと安心するらしいのだ。多分、学生時代まで遡る古い記憶は消えていないのだろう。皮肉なものね、と土岐子は思う。雄二と再婚した時は、二度とこの家の玄関をくぐることはないだろうと思っていたのに。
 今日も、土岐子は雄二と共に敏夫の家に世話になっていた。いつものように、リサが三人分のお茶を運んでくる。
「ありがとう、リサ。」
「ありがとう。」
 雄二の口調は、まるで昔のように落ち着いていた。きっと、彼が知っているものばかりに囲まれているからだろう。土岐子の家には、彼の知らないものが多すぎる。とりわけ、雄太の存在は彼を悩ませるらしい。
「どうだ雄二、最近の調子は。」
「ああ…悪くないよ。」
 そう言って彼は何かを考え込む。きっと何かを思い出そうとしているのだろう。次第に、彼の唇が固く結ばれてゆく。それに気付いた土岐子は、彼の肩をそっと叩いて促した。
「雄二さん、お茶が冷えちゃうわよ。温かいうちに召し上がったら?」
「ああ、そうですね。ありがとう奥さん。」
 またこれだ。彼はまた土岐子のことを敏夫の妻だと思っている。土岐子は苦笑して、敏夫に肩をすくめて見せた。
「君、変わったな。」
 敏夫がティーカップから視線を上げてポツリと言う。
「私が?雄二さんが帰ってきてから?」
「うん。…強くなった。明るくなったよ。」
「そうかしら。そうかも知れないわね。」
 そう言って、土岐子は雄二の手を優しく握った。
「雄二さん、私はね、今はあなたの奥さんなのよ。」
「え!?」
「驚かせてごめんなさいね、でもそれが本当のことなの。」
 土岐子は雄二の肩に手を回し、彼をそっと抱きしめた。
「済みません、あの、僕...」
「いいの、あなたは悪くないの。ちっとも悪くないのよ、何も心配することはないわ。」
 土岐子は夫の肩を撫でながら、悪くないの、悪くないのと何度も繰り返した。やがて雄二も安心したのか、彼の表情から緊張が解けてゆく。
「大変だな、土岐子。」
 敏夫の言葉に、土岐子は軽く首を振った。
「ううん、そうは思わないわ。彼はまるで子供みたい。息子が一人増えたみたいなものですもの。」
 土岐子の笑顔に、敏夫は思わず苦笑してお茶をすすった。
「何がおかしいの?」
「俺の心。君達の間に、もう俺の入る隙間はないなんて考えてたんだ。」
「どういう意味?」
「君が雄二を心から愛していることがやっとわかったって、そういう意味さ。」
 雄二は二人の会話を聞いているのかいないのか、腰をかがめてエリザベスと戯れていた。彼が喉をさすってやると、エリザベスは目を細めてゴロゴロと喉を鳴らす。無心な横顔は本当に子供のような表情だ。
 ふと、エリザベスが何かの物音に顔を上げた。階段を上がってくるリズミカルな足音。
「ただいま!」
 部屋に飛び込んできた瞳は、予想外の来客に面食らったようだ。
「ママ、雄二おじさん…いらっしゃいませぇ。」
「おかえりなさい、瞳。」
 雄二は不思議そうな顔で少女の顔を見つめていたが、ふと彼の表情が明るくなった。
「瞳ちゃん、だね…?!」
「え、ええ。」
「そうか、瞳ちゃんかぁ。しばらく見ないうちに大きくなったなぁ。今何歳?」
「九歳です。」
「九歳か。すると…。」
「雄二さん。子供って、ちょっと見ない間に成長するものねぇ。」
 失った年月のことを思い出させまいと、土岐子が雄二を気遣った。雄二は曖昧な表情で肯き、瞳の頬に手を当てる。
「ママによく似てる。きっと美人になるよ。」
 どう答えたものか、瞳は困って母親を見た。
「そりゃそうよ、親子なんですもの。ね、瞳。」
 土岐子はどこか嬉しそうな声で言った。雄二も納得したような表情で微笑んでいる。だが彼が敏夫・土岐子・瞳そして自分の関係を、どのように理解しているのかはわからない。



「さて、そろそろ雄太が帰って来る時間だわ。雄二さん、あまり長居しちゃ敏夫さんに迷惑でしょ?」
 土岐子はちらりと時計に目をやると、雄二の背中を促した。雄二は言われるままに立ち上がる。
「ごめんね瞳、今度はゆっくりしていくからね。」
 瞳の顔に一瞬浮かんだ表情に気づき、土岐子は娘に声をかけた。敏夫は特に引き止めもせず、二人を玄関まで送ってゆく。
「じゃ、またな。」
「ええ。」
 土岐子は玄関にかけた上着を取り、雄二に着せてやろうとした。雄二は途中で彼女の手を拒み、自分の手でボタンを留めようとする。そんな二人の姿を、敏夫と瞳は黙って見つめていた。
「ねぇ敏夫さん、さっき雄二さんが瞳のことを思い出したわね。」
ドアノブに手をかけた時、土岐子がふっと振り向いて言った。
「彼ね、最近いろんなことを少しづつ思い出してるみたい。歩みは遅いけど…いつの日かきっと、全ての記憶を取り戻す時が来るような気がするの。」
「そうだな。うん、きっとそうだ。俺もそう思うよ。」
 土岐子は微笑みで答えると、雄二の背中を促して出ていった。階段を降りる二人の足音が段々小さくなってゆく。その足音が聞こえなくなってしまうまで、敏夫と瞳は玄関じっとたたずんでいた。
 台所に戻るとき、敏夫はふと昔のことを思い出した。朝から晩まで仕事に追われていた日々。妻と子供のいる幸せな家庭を築くため、すべてを犠牲にして働いていた日々。あの頃、敏夫も何度か失踪したいと思ったことがある。妻も仕事もまだ幼い娘も、すべてがただ重荷に思えて嫌になったことがある。…雄二もそう思ったのではないだろうか?そして、その願望を現実化してしまったのではないだろうか。だが、本当のところは誰にもわからない。今の彼には…いや、敏夫と土岐子にも、しばらくは時間が必要だ。
「お茶を片づけます。」
 聞き慣れた声に振り向くと、リサがカタカタとお茶の道具を運んできた。その後から、瞳がエリザベスの首筋を撫でながら歩いてくる。敏夫はその時、なぜか前から気になっていた事を聞いてみなければ気が済まなくなった。
「なぁ、瞳。」
「うん?!」
「リ…このロボットのことだがな、これからもずっとリサって呼んでいいか?」
「うん。パパがいいんだったらね。」
 瞳が笑ったので、敏夫も笑った。そして、いつかどこかでこんな会話を交わしたような気がしていた。

−完−

※※※ 小説に登場している人物・団体・製品などの名称は全て架空のものです。例え同名のものが実在しても、本小説の内容とは一切関係ありません。 ※※※

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