LISA:10 「三日月ヶ原にて」



 あの急激な発作が嘘だったかのように、酸素吸入器の下で雄二は静かに眠っている。その手を膝の上で優しく握りながら、じっと雄二の顔を見つめている土岐子。
「土岐子、飲み物買ってきたぞ。」
 振り向くと、敏夫が缶コーヒーを両手に持って立っていた。
「済まんな、病院の自販機にはこんなもんしかなくて。」
「ありがとう。…そこへ置いといてください。」
 敏夫は缶コーヒーをサイドボックスの上に置くと、自分の分を持って土岐子の隣に座った。
「どう、雄二の様子は?」
「今は眠っています。詳しいことは、大きな病院で精密検査しないとわからないって、お医者様は言ってました。」
「そうか…。」
 土岐子は雄二の髪をそっと撫でてみる。敏夫も手に持った缶コーヒーを飲みもせず、黙ってそれを見つめている。土岐子も敏夫も、互いに言いたいことは山ほどあった。言わなければいけないことも山ほどあったが、今はただ黙っていたかった。救急病院の狭い病室に、静かな三人だけの時間が流れてゆく。この静寂な時間が続いている間は、昔のような三人の関係でいられるような気がしていた。



 土岐子の部屋で、瞳は膝にエリザベスを抱えて座っていた。土岐子が救急車に同乗して行ったあと、雄太はママを恋しがってぐずっていたが、今は安らかに眠っている。瞳はリズの背中を何度も撫でながら、電話が鳴るのをじっと待っている。やがて待望のベルが鳴ったとき、彼女は飛び付くように受話器を掴み取った。
「もしもし、羽田ですが?」
「瞳か?俺だ、パパだ。」
「パパ?!」
 画像ボタンを押すと、液晶ディスプレイに父親の顔が映った。彼女はほっと一安心する。
「ねぇ、雄二おじさんは大丈夫?」
「大丈夫、生命に別状はない。大きな病院で精密検査受ければ、記憶だって戻ってくるだろうさ。」
「そう、よかった…。」
「そっちはどうだ瞳、雄太君はおとなしくしてるかい?」
「ええ、今は眠ってるわ。ママがいないってそりゃ大変だったけど。」
「ははは、それは御苦労だったな。」
「笑わないでよ、私すっごく心配だったんだから!パパったらすぐ電話するって言ったのに、ぜんぜん電話かかってこないんだもん!!」
「済まん済まん、ママと大事な話があってな。いいか、よく聞けよ瞳。ママな、しばらく雄二おじさんの付き添いでそっちへ帰れなくなるんだ。だから、雄太君はうちで預かることにした。」
「うちって、三日月ヶ原の?」
「そうだ。ママの部屋がずっと空いてただろう、あそこを雄太君の部屋にする。」
「でも…。」
 瞳はディスプレイに映る父親の顔を凝視する。
「嫌なのか?お前がどうしてもって言うなら、無理には…。」
「ううん、違うの、雄くんをうちで預かるのは大賛成よ。それに、弟が家にいるって素敵じゃない!」
 瞳は父親に笑って見せたが、内心は複雑な心境だった。父親には内緒だったが、瞳は時々そっと土岐子の部屋に入って、母親が家にいた頃を思い出していたのだ。今はがらんとして殺風景な部屋だったが、昔ここに母親がいたと思うだけで、彼女は何故か安らかな気持ちになれるのだった。そのママの部屋に雄くんが来る…。
「そうか、それを聞いて安心したよ。それじゃ、詳しいことは帰ってからな。俺は今からそっちへ帰る。ママの車のキーを借りてるから、みんなで一緒にうちへ帰ろう。雄くんもベスもリズも一緒にな。」
「うん。じゃ、待ってるわね、パパ。」
 電話を切ったあと、瞳はどさりとベッドに身を投げ出した。いろんなことがいっぺんに起こりすぎて、何だかとても疲れた気持ちだった。ぼんやりと天井を眺めながら、彼女は母親のことを考える。ママは毎日このベッドで寝て、この天井を見ていたのかしら。寝るとき、ママは何を考えただろう。私やパパのことを思い出す時もあったのかしら。
 瞳は枕を抱き寄せて、そっと顔を押し付けた。枕は柔らかくて、暖かくて、遠い昔に抱かれた母親の胸のようだった。その枕に、瞳の涙がゆっくりと染み込んでゆく。そんな瞳の背中を、猫のエリザベスがじっと見守っていた。



 一ヶ月のリハビリと薬物療法にも関らず、雄二の記憶は断片的にしか戻らなかった。彼は土岐子を認識したが、まだ敏夫の妻だと思い込んでいたし、息子の雄太は認識できなかった。説明すればその場では納得するが、数分もしないうちに忘れてしまうのだ。
 医者の説明では、記憶を失うことと、記憶できなくなることは全く別の症状で、両者が同時に発生するのはきわめて稀なケースだということだった。
「一応、薬物投与は続けます。それと、定期検診も受けてください。ですが、はっきり申し上げて、御主人の病状が今以上に良くなるかどうか、私には断言できません。」
「先生、先ほど精神的なもの、とおっしゃいましたが…。」
「ええ。脳外科医として、こんなことを言うのは気が引けるのですが...。」
 彼が言うには、雄二の脳に出血・血流阻害・腫瘍などの兆候は全く見当たらず、健康そのものだと言う。それなのに記憶に障害があるというのは、脳外科医としては説明できない。唯一考えられるのは、強いストレスや精神的ショックによって患者が自らの記憶を封印してしまうケースで、わずかだが過去に症例があるという。こういった深い精神障害は例も少なく、患者によって原因や症状もまちまちで、治療法など全く確立されていない。ケースバイケースで、時間をかけて治療してゆくしかないのだそうだ。彼は引き出しをかき回し、一枚の名刺を取り出して土岐子に渡した。
「私の知り合いの精神科医を紹介しておきます。彼なら経験も豊富ですし、信頼のおける医者です。ただ、念のため言っておきますが…。」
「主人の症状が直る保証はない、ということですね。」
「残念ながら、そういうことです。」
 土岐子は雄二の手を引いて診察室を出た。雄二は相変わらず勝手がわからない様子で、子供のように土岐子の後をついてゆく。長く静かな廊下を抜けた診察室では、敏夫たちが土岐子を迎えに来ていた。雄太は土岐子を認めるや否や、敏夫の手から駆け出して土岐子の膝に抱き付いた。
「雄くん、ごめんね待たせちゃって。いい子にしてた?」
「ウン。」
「土岐子、どうだった?雄二は退院できそうか?」
「ええ。」
 土岐子は複雑な表情を見せ、何かを口ごもったようだった。
「そうか。良かったなぁ雄くん、これからパパとママと一緒に暮らせるぞ。」
 敏夫はわざと陽気な口調で言ってみせた。だが、彼にはわかっている。雄二が退院できるということは、これ以上病院にいても回復する見込みがないということだ。
「坊や、パパと一緒に暮らせるんだって?良かったねぇ、おじさんも嬉しいよ。」
 雄二は無邪気な表情で雄太の頭を撫で、土岐子は困ったような顔で息子の肩を抱き寄せた。気まずい雰囲気から逃れたくて、敏夫は三人を促した。
「瞳を車に待たせてあるんだ。行こうか、な。」
 駐車場へ向かう道すがら、敏夫はずっと前から気になっていたことを打ち明けた。
「なぁ土岐子。うちのロボットのことなんだがなぁ…。」
「ロボットって、瞳が『リサ』って名前をつけた?」
「うん。そのロボットだが、雄二のことを何か知ってるらしいんだ。」
「雄二さんのことを?!」
「うん…。少なくとも、『ユウジ』という名前が記憶装置のどこかに残っているらしい。それが彼のことだという保証はないけれど、一度彼を会わせてやれないか?何か手掛かりが掴めるかも知れない。失踪中の居場所とか、記憶喪失の原因とか…。」
 土岐子は隣の夫に目をやった。落ち着きのない視線と、不安を押し隠すための微笑。彼の記憶が戻るのなら、どんな些細な手掛かりでもいい。でも、もし間違いだったら?それが記憶を混乱させるのなら、彼の不安を増長することになり兼ねない。
「もし君が賛成なら、三日月ヶ原の家へ寄って行くけど。もちろん、反対ならそれで構わない。リサの記憶だって不完全だし、それに彼だって…。」
「いえ。お願いします。」
 土岐子はきっぱりと言って、夫の手を握り締めた。



 土岐子が三日月ヶ原を訪れるのは、実に5年ぶりのことだった。車から降りた彼女は、思い出の詰まった家を前にして立ち尽くす。笑い、泣き、そして悩み苦しんだ、懐かしく切ない思い出の数々。
「さぁ、遠慮しないでくれ。知らない家じゃないだろう?」
「ええ。」
 土岐子は雄二の手を引いて、瞳は雄太の手を引いて階段を上る。敏夫がドアを開けると、リサがカタカタと音を立てて走ってきた。
「お帰りなさい、トシオさん。」
 リサのカメラは敏夫を認識し、そして土岐子の顔に焦点を合わせた。
「お客様ですか、いらっしゃいませ。」
 カメラが回転して雄二の方を向く。果たして、リサは何と言うだろうか。
「お客様ですか、いらっしゃいませ。」
 リサのカメラは雄二を認識しなかった。敏夫と土岐子の口から、失望とも安堵ともつかない溜め息が漏れる。だが、雄二の反応はそうではなかった。
「あぁ…。私、この子を知っています。前に、一緒に、暮らしていました。」
 彼はリサの前にしゃがみ込むと、そっと手を伸ばして頭部に触れた。キュン、と鋭い音を立ててカメラが回転し、雄二の顔をアップで捕らえる。
「ユウジ、サン?!」
 雄二は微笑んでリサの頭部を撫でた。


※※※ 小説に登場している人物・団体・製品などの名称は全て架空のものです。例え同名のものが実在しても、本小説の内容とは一切関係ありません。 ※※※

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