イラストについて
零戦五二型です。プレーンズ・オブ・フェーム航空博物館所有の 61-120 号機を参考に描いています。今回はやけに気合が入ってますが、タネを明かせばもともとこの零戦は贈答記念CG用だったのです。原画は 1920x1280 もあり、主線をすべてパスで描くという肩の凝る手間をかけました。背景はグラディエーションで空を描き、雲と海面はエアブラシ、翼端の逆光は PhotoShop のフィルタで入れています。
ゼロの伝説:零式艦上戦闘機
大人から子供まで、日本人なら「ゼロ戦」という言葉を一度は聞いたことがあるでしょう。日本人にとって、ゼロ戦は戦艦大和、原子爆弾とならんで太平洋戦争の象徴です。そして「ゼロ戦」という言葉から連想されるのは「神風」…絶望的な戦況の中で行われた、爆弾を抱いた体当たり攻撃という悲惨なイメージではないでしょうか。しかし神風特攻について語る前に、もう少し時計の針を巻き戻してみましょう。
零戦は昭和12年(1937年)、来るべき対米戦を眼中に入れて開発された機体です。常識はずれとも言える過酷な要求を実現するため、三菱の主任設計者堀越技師は可能な限り機体をコンパクトにし、徹底的な重量軽減を施しました。馬力の割に直径の小さな中島「栄」空冷エンジンに合わせて胴体はギリギリに絞り込まれ、沈頭鋲を使って機体表面を平滑に仕上げたため、零戦は華奢さを感じさせるほど細身で優美な、とても戦闘機とは思えない機体となりました。
しかし零戦は同時代・同クラスの戦闘機にくらべるとずば抜けて軽く、上昇性・加速性・旋回性に著しく優れていました。この事実はやがて太平洋戦争で証明され、連合軍パイロットの心胆を寒からしめることになります。イギリスの誇るスピットファイヤー戦闘機、中国戦線での実績を持つ米陸軍 P-40 戦闘機、頑丈さが自慢の米海軍 F4F 戦闘機でも、一対一の戦闘では零戦に翻弄され続けました。加えて、零戦の持つ往復2,000キロという信じがたい行動半径は連合軍首脳部を混乱させ、日本戦闘機の過大な見積もりや、存在しない空母の捜索などが行われる有様でした。
しかし戦争が長引き膠着状態となってくると、零戦の持つ弱点が少しずつ明らかにされてゆきます。徹底的に重量を省いた零戦には防弾装備が全くなく、流れ弾やマグレ当たりでもパイロットが死傷したり、燃料タンクが破れて炎上することがありました。例え火を吹かなくとも、帰りの燃料が漏れてなくなれば「終わり」です…日本軍は捕虜になることを禁じていましたし、洋上に不時着しても救助体制などなかったのですから。米英の戦闘機が防弾装備に身を固め、潜水艦・飛行艇を駆使して積極的に搭乗員を救助していたのとは対照的です。この対照はすなわち、根本的な彼我の国力の対照でもありました。
膠着状態での消耗戦となれば、国力のある方が勝ちです…伸びすぎた戦線を維持できず、日本軍は損害を出しながら撤退を続けました。一方、米英の戦闘機はよりパワーのあるエンジンを積み、より強固な武装と防弾を備えた新型が出現していました。米陸軍 P-38、米海軍 F4U, F6F といったこれら新型機を前にして、軽快さだけで勝負を挑む零戦は苦戦を強いられました。設計段階で切りつめすぎた零戦にはパワーアップの余裕もなく、零戦に代るべき新型機の開発は遅れ、ここにも国力の差が歴然と現われていました。
物資で国力の差が埋められないのなら、人間が埋めるしかない…こうして始まったのが特攻作戦でした。特攻機の操縦桿を握っていたのは、飛行学校を出たばかりの若い士官がほとんどでした。彼らの多くは熱狂的な天皇崇拝者でも神がかり的な好戦主義者でもなく、家族を愛し、家族に愛されたごく普通の若者たちでした。特攻作戦が時間稼ぎに過ぎず、戦果が期しがたいことも知っていながら特攻任務に志願した彼らの胸中はいかなるものだったのでしょうか…。
零戦の総生産数は約一万機。日本機の中ではずば抜けて多い数です。しかし、満足な外形を保って保存されている機体は多くありません。アメリカには修復され飛行可能な零戦が数機存在しますが、オリジナルの栄エンジンを搭載しているのは一機だけです。これはカリフォルニア州チノの「プレーンズ・オブ・フェーム」航空博物館所有の零戦五二型(A6M5)で、機体番号61-120です。祖国日本では忘れられようとしている零戦が、かつて戦った敵国アメリカにおいて高く評価され、大切に保存されているのは歴史の皮肉でしょうか…。
[飛行機エッセイ]
[目次]
Copyright by 'Crazy' Y.Sasaki