イラストについて
飛燕といえばこの機体、飛行第 244 戦隊長・小林照彦少佐の 3295 号機です。機体はキ-61-I 丙型で、両翼に積んだ「マウザー砲」こと MG151/20 20mm 機関砲が特徴。尖った機首や細長い主翼といった本機の特徴を強調したポーズで描いてみました。
冬空の燕:川崎キ-61 三式戦闘機「飛燕」
川崎航空機の三式戦闘機「飛燕」は、日本では珍しい水冷エンジンを搭載した戦闘機でした。ほとんどの日本軍用機が星型の空冷エンジンを搭載したなかで、飛燕のスマートな機首はひときわ異彩を放っています。この尖った機首と全幅 12m もある細長い翼は、敵であった米軍にも日本機離れした印象を与えたのか「トニー(Tony)」のコードネームが付けられました。「トニー」はイタリア人の渾名でもあり、スタイルの似たイタリア製マッキ Mc.202 戦闘機にちなんだものと思われます。
「飛燕」のルーツは 1938 年のヨーロッパに溯ります。当時日本の同盟国であったナチス・ドイツは同年 9 月のポーランド侵攻を皮切りに電撃的な連勝を収めつつあり、欧州の覇者への道を着々と進んでいるかのように見えました。そのドイツ軍の行くところ、常に先頭を飛び敵国の航空兵力を圧倒していたのがメッサーシュミット Bf109E 型戦闘機だったのです。
日本陸軍はとりわけメッサーシュミットの心臓部であるダイムラーベンツ DB601A 型 1100 馬力水冷エンジンに興味を持ち、1940(昭和 15)年にそのライセンス製造権を購入します。そして、このエンジンおよびそれを搭載する機体の開発を川崎航空機に任せました。
川崎航空機はそれまで、BMV IV 型水冷エンジンを国産化した「ハ-9」を搭載した「95 式戦闘機」「98 式軽爆撃機」などを生産していましたが、1000 馬力を超えるエンジンを積んだ近代的高速戦闘機は初挑戦でした。このプロジェクトを率いた設計部長の土井武夫氏はドイツのリヒャルト・フォークト技師に学んだ経歴を持ち、割り切りの良い合理主義の持ち主として知られていました。
土井氏は与えられたエンジン…DB601 の国産型「ハー40」をベースに2機種の機体を並行開発しました。小さな翼を付け速度と上昇力を重視した「キ-60」と、大きな翼を付け運動性を重視した「キ-61」です。前者はいわゆる「重戦闘機」で後者が「軽戦闘機」に相当しますが、土井氏の胸中には「設計を洗練することにより、同じ機体で速度と運動性は両立させる事が可能である」という信念があったようです。その為かキ-61 は軽戦闘機ではなく「中戦闘機」という異例の名称で呼ばれ、キ-60 より時間をかけた入念な設計が行われました。
果たして 1941(昭和 16)年 12 月に完成したキ-61 試作機は、半年前に完成していたキ-60 を全ての性能で上回ったばかりか、参考輸入していたメッサーシュミット Bf109E さえも圧倒する性能を見せ陸軍関係者を狂喜させました。日本は既にアメリカを中心とする連合軍相手の全面戦争に突入しており、誰もが高性能新鋭戦闘機の配備を待ち望んでいたのです。ただちに大量生産が発注され、1943 年(昭和 18 年) 6 月に「三式戦闘機」として制式採用手続きが済んだ頃にはかなりの数が実戦部隊に配備されていました。しかし、それは飛燕にとって苦難に満ちた戦歴の始まりでもあったのです…。
飛燕の心臓・ハ-40 の原形となったダイムラーベンツ DB601 は、当時の技術水準を大きく引き離したハイテクエンジンでした。倒立V型 12 気筒のシリンダーはアルミ合金のブロックから一体鋳造され、各シリンダーごとに吸排気バルブを各二本づつ装備、長く複雑な形状の鍛造クランクシャフトとピストンロッドはローラーベアリングで結合(ロッド結合部一個所につき 3 列 x 約 30 個、12 気筒に対し全部で約 540 個!)、高空性能を確保する過給器(スーパーチャージャー)は油圧式の無段変速器(フルカン継手)を介して駆動され、燃料は気化器(キャブレター)を使わず精密な燃料ポンプでシリンダ吸気口直前に噴射…と、主だった特徴を列挙しただけで頭が痛くなるような代物だったのです。確かにこれらの特徴が DB601 の高性能を支えてはいたのですが、それにしても性能の割に凝りすぎたメカニズムという感は否めません。そして「工業の国」ドイツでは何の問題もなく作動していたこれらの機構は、まだ発展途上にあった日本の工業力の底の浅さを次々に露呈してゆくことになるのです。
飛燕は行く先々でトラブルに次ぐトラブルを起こし、特に部品や工具の不足しがちな最前線では稼働率の低さが際立ちました。南方の激戦地・ラバウル救援の為に送られた 68 戦隊 13 機のうち無事に到着したのはたった 1 機、後続の 78 戦隊は 38 機中 7 機だけ到着…。本機の高性能は確かに搭乗員を魅了しましたが、それには「エンジンさえ快調なら」という枕詞が付いて回りました。そして戦闘機乗りにとって、エンジンがいつ止まるかわからない飛行機なんて空飛ぶ棺桶と何ら変わりがないのです。
飛燕の苦難を嘲笑うかのように、米軍は旧式化した P-39 や P-40 を前線から引き下げ、P-38 ライトニング・P-51 ムスタング・F4U コルセアといった新鋭機を繰り出してきました。完成直後は希代の高性能機と言われた飛燕も、同じエンジンのまま相次ぐ防弾・武装強化によって重量が増大し、米軍機との性能差は開く一方となってしまいました。川崎航空機では出力を 1500 馬力に向上した「ハ-140」エンジンを開発、これを搭載したキ-61-II 型の生産を急いでいましたが、1100 馬力のハ-40 すらこなし得なかった工業力には過ぎた背伸びでした。
1944(昭和 19)年末、サイパン島から飛来する B-29 による本格的な本土空襲が始まりました。日本機のなかで比較的良好な高々度性能を持つ飛燕は、陸軍迎撃機の精鋭としてこれに立ち向かいます。しかし期待される II 型の配備は B-29 の空襲によってハ-140 の生産が遅延し、エンジン調達が機体の生産に追いつかない有様でした。
「首無し」の機体ばかりが工場に溜まってゆく事態を憂慮した陸軍は、飛燕の機体に三菱製「ハ-112-II」空冷星型 14 気筒 1500 馬力エンジンの搭載を指示します。この苦肉の策によって生まれた機体は「キ-100 五式戦闘機」の名で呼ばれましたが、空冷エンジンによる抵抗増加にも関わらず馬力増加と軽量化によってオリジナルの飛燕を上回る性能を見せ、何よりエンジンの高信頼性はすべての搭乗員から絶賛されました。しかし五式戦闘機の量産が始まったのは 1945 年 3 月のことで、既に戦争の行く末は決定的だったのです。…日本は五ヶ月後に無条件降伏を受け入れました。
空を圧する B-29 の大編隊に銀翼をひらめかせて挑戦する飛燕の勇姿は、当時の人々に希望と感動をもって受け止められました。しかし飛燕が最後の活躍を見せていた 1944 年の冬、水冷 1000 馬力級の戦闘機は既に時代遅れとなっていたのです。ライバルの P-51 ムスタングやスピットファイアはとっくの昔に 1500〜2000 馬力を実現しており、ドイツでは 1800 馬力のエンジンを搭載した Bf109K が登場していました。これらに対し飛燕は後継機である II 型の開発生産が遅延したことにより、1941 年当時と変わらぬ姿で戦うことを強いられたのです。性能不足をカバーするため武装や防弾装甲が削減され、重量軽減のため迷彩のペンキまで剥がし、最後には無武装の機体による体当たり攻撃すらも行われました。その痛々しい姿は、まるで南へ渡れなかった冬空の燕のように思えます…。
[飛行機エッセイ]
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