イラストについて
D.H.98 モスキートと御先祖 D.H.88 コメットを並べて描いてみました。直線的な主翼に対し楕円形の尾翼を持つ点などに共通点が見出せますね。モスキートは外見からサブタイプを判断しにくい機体ですが、一応写真偵察型の PR.IV をモデルにしています。ナセルの形状や排気管の位置にはちょっと嘘がありますが、まぁそれは御愛敬(^_^;)
D.H.88 コメットのオリジナルは5機生産されたようです。真紅の「グロブナー・ハウス」号以外にも「ブラックマジック」「ブーメラン」号などがあったようですが、どんな塗装だったのか資料がありません(-_-;)。
輪郭線は手描きですが、主翼前縁や水平尾翼はパスで描き直しています。コメットの無線コード「G-ACSS」や胴体側面のストライプはパスと手描きを併用。赤い色は劣化しやすいので、JPEG の画質はいつもより高めにして保存しています。
★上下に切れちゃったのでトリミング無しバージョン(480x640 45Kbyte)も用意しました。
それは彗星のように:デハビランド D.H.88 コメット、D.H.98 モスキート
1934 年 10 月、ロンドンからメルボルンまでの空を駆け抜けた真紅の機体がありました。オーストラリアの航空実業家マクファーソン・ロバートソン卿が催した賞金 15,000 ポンドのエアレースに勝つために作られた、デ・ハビランド D.H.88 型「コメット」機です。
このレースに参加したライバルはアメリカ製ダグラス DC-2 やボーイング 247 で、800 馬力級のエンジンを積んだモダンな全金属双発十数人乗りの旅客機でした。しかしコメット機は 240 馬力双発の小型機で、薄い翼に入らない燃料タンクが胴体中央部に鎮座し、たった二人の乗員は胴体後部の狭いコクピットに押し込められるという、およそ商用機とはかけ離れたレース専用機でした。しかしコメット最大の特徴はその異様な外見ではなく、時代を逆行するかのような全木製という構造にあったのです。
専用レーサー D.H.88 コメットはロバートソン競技で見事一位を獲得しましたが、二位に着いたのは乗客を満載した機体を大馬力エンジンで引っ張った旅客機仕様の DC-2 でした。当時イギリス製の商用旅客機はダグラスやボーイングに全く太刀打ちできず、専用機を開発しなければレースに勝てなかった、というのが実状でもあったのです。
しかし D.H.88 の成功に気をよくしたデ・ハビランド社は、1937 年に全木製の四発旅客機 D.H.91「アルバトロス」を開発します。D.H.91 は旅客史上最も美しいとさえ思える流麗な機体でしたが、これは惨めな失敗に終わりました。空力を追求しすぎた胴体は狭く窮屈で、しかも強度不足のため事故が頻発したのです。アルバトロスの失敗により、もはや木製機の時代は終わったか…に思えました。しかし、戦争という異常事態が思わぬドンデン返しを引き起こしたのです。
時は 1938 年…まだアルバトロスに希望が持たれていた頃…に溯ります。ヒトラー率いるナチス・ドイツがヨーロッパに戦雲を広げるなか、デ・ハビランド社長ジオフリー・デ・ハビランド卿はナチスの戦闘機を振り切れる高速爆撃機の構想を思い付きました。それは二つの意味で非常識な機体でした…まず速度を優先するため、防御武装を全く持たないこと。次に、コメットやアルバトロスで用いられた全木製構造を採用すること。
戦闘機を振り切れる「高速軽爆」のアイデアは 1930 年代半ばに流行し、1938 年頃にはその化けの皮が剥がれてきた頃でした。ましてやそれを木で造るなど狂気の沙汰です。もちろん空軍当局はまともに取り合いませんでした。ただ一人…高速長距離偵察・爆撃機の必要性を主張するウィルフリッド・フリーマン大将を除いては。
こうして、「フリーマンの道楽」と陰口を叩かれながら社内呼称 D.H.98、英軍プロジェクト名 "B.1/40" は始動しました。軍当局も「貴重なアルミ資源を浪費しない」という説得に折れ、渋々と貴重なマーリン・エンジンを回してくれました。誰も期待していないプロジェクトだけに高性能機開発にありがちな横槍も入らず、1940 年 11 月には早くも初飛行を迎えることができました。試作機はいきなり 632Km/h という速度を叩き出し、「木製機など」と鼻で笑っていた空軍当局者達の度肝を抜きました。当時 500Km/h 強の機体が「高速爆撃機」と呼ばれていたのですから、632Km/h の凄さが知れます。早速偵察機として採用され 1941 年には初出撃し、これがモスキートの短くも華々しい活躍の嚆矢となりました…。
偵察機として名を上げたモスキートはすぐに爆撃機型に発展し、そこから戦闘爆撃機型、夜間戦闘機型など様々に派生しました。中には2トン爆弾を搭載する B.XVI 型や 57mm 自動砲を積んだ FB.XVIII 型など、とても木製の双発複座機とは思えない重武装型もあったくらいです。しかも驚くべきはモスキートが配備された全ての任務で常にトップクラスの性能を誇ったことで、これには敵ばかりか味方も驚き「木製の驚異(Wooden Wonder)」という渾名が付けられたほどでした。
戦闘爆撃機型モスキートによってドイツ海上輸送網は寸断され、自慢の潜水艦Uボートは浮上中を狙われ 57mm 砲の餌食になりました。高性能レーダーを積んだ「パスファインダー・モスキート」は正確な爆撃コースへと重爆隊を誘導し、これを墜とすため血眼になったドイツの夜間戦闘機の多くは随伴した夜戦型モスキートの返り討ちに会いました。ドイツの空を我が物顔で飛び回るモスキートはドイツ軍にとって実にいまいましい「蚊」であり、しかもそれを撃墜できるドイツ機は新鋭ジェット戦闘機も含めて数機種しかなかったのが実状だったのです。
モスキートはその高速を活かして戦時下の要人輸送にも使われました。爆弾倉を客室に改造した特別製モスキートのお世話になった要人の中には、指揮者マルコム・サージャントや物理学者ニールス・ボーアも含まれます。要人や重要書類を中立国スウェーデンに運んだ帰りの便にはお土産代わりに貴重なボール・ベアリングを満載したので、この高速便は「ボール・ベアリング・ラン」の異名で呼ばれました。500 回以上を数えたボール・ベアリング・ランの中で失われたモスキートは4機、しかも人命はわずか2名に過ぎなかったそうです。
こうして、モスキートは連合軍の作戦に欠かせない存在として戦争を戦い抜きました。大馬力エンジンを積んだアメリカの四発重爆が白昼絨毯爆撃によってドイツの街を見境なく瓦礫化していったのに対し、モスキートが人口密集地内でも重要軍事目標だけに正確なピンポイント爆撃を行ったのは全く対照的でした。それはあたかも、1934 年のロバートソン競技に予言されていたかのようです。そしてデ・ハビランド社の命運もまた、奇妙な偶然の一致に委ねられることになったのでした…。
戦後の 1949 年、デ・ハビランド社は革命的な全金属製ジェット旅客機を発表します。その名も D.H.106「コメット」…それは 1934 年の勝利を今一度という、英国航空界の切実な願いが込められた命名でした。素材は金属に代わってもその流麗なボディラインには D.H.88 コメット以来のデ・ハビランドの伝統が息づいており、押し迫るアメリカ製旅客機陣を圧倒的な性能差で巻き返すことができる…はずでした。
しかし就航早々コメットには謎の墜落事故が相次ぎ、すっかり商用旅客機としての信用を失墜してしまったのです。必死の研究の結果明らかになった原因は、与圧キャビンがもたらす金属疲労でした。当時長期ストレスによる金属疲労については研究が進んでいなかったことも確かですが、長らく木製機を専業としてきたデ・ハビランド社が金属素材について理解が浅かったことも否めません。すぐに対策は取られたものの一旦失墜した信用を取り戻すことはできず、民間旅客機としてのコメットの未来は閉ざされました。皮肉なことに、この美しいジェット旅客機には D.H.91「アルバトロス」の暗い運命がオーバーラップしたようです…。
ある航空機が「傑作機」なのか「駄作機」なのか、それはその機体が生まれた時代背景に強く依存します。そして航空機の設計とはシビアなもので、「洗練された傑作機」と「強度不足の欠陥機」は紙一重の関係なのです。「傑作機」と「欠陥機」を交互に輩出したコメット一族はいかに設計者ジオフリー・デ・ハビランドの設計センスが洗練されていたか、そして1930 年〜1950 年の 20 年間がいかに航空産業にとって波乱と発展に満ちた時代だったかを雄弁に物語っているようです。
一方、戦時中は伝説的な働きをしたモスキートもジェット化の波には逆らえず、戦後はすぐに第一線を引いてゆきました。しかも全木製という構造化が災いして老朽化が激しく、長期にわたって飛行可能な状態を維持するのが困難です。それでもたった一機の T.IIIタイプが飛行状態で残されていたのですが、1997 年飛行展示中に墜落してしまいました。近代航空史に突如として出現した「木製高速機」というジャンルは、こうして儚く消えて行ったのです。そう、それはまるで彗星のように…。
[飛行機エッセイ]
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