Nakajima Ki-84(19.2K) イラストについて
 うーん、もちっと胴体後部を長くしてコクピットを後退させるべきだったなぁ…と今更言ってもあとのまつり。今回はなるべく手描き線を残していますが、主翼など歪みの目立つラインはパスに置き換えています。
 塗装は現存する 1466 号機に合わせてみました。尾翼の稲妻マークはフィリピンに進出していた11戦隊のものですが、正規の塗装ではないようです。復元機をイメージしたのですが、練習がてらに控えめなヨゴシ表現を入れてみました。

 背景は何となく芝生の飛行場。芝生はグラディエーションの違う緑を何色もムラムラと重ねてスマッジツールで上下に引っ張る「にせ油絵的手法」、芝生に落ちる影は乗算合成レイヤーを似たような方法で加工して入れています。



最後の翼:中島キ-84 四式戦闘機「疾風」

 1973 年 10 月、埼玉県入間の自衛隊基地に時ならぬレシプロ・エンジンの音が響きました。エンジンをいたわるような低回転で上空をそっと通過する機影はかつて「大東亜決戦機」と呼ばれ、敗色の濃い戦場においてこの国の命運を一身に担った中島四式戦闘機「疾風」唯一の現存機が、数奇な運命を辿りかつての敵国アメリカから約 30 年ぶりの里帰りを果たした姿でした…。

 開発呼称キ-84と呼ばれた「疾風」の計画は、対米開戦直後の 1941 年 12 月末に開始されました。この機体はそれまでに中島飛行機で開発された軽戦闘機「隼」、重戦闘機「鍾馗」の経験を踏まえ、両者の利点を兼ね備えた万能戦闘機としての性能が要求されていました。軍用機の歴史において、あれもこれもと欲張った要求性能仕様を突きつけられた機体が成功した例はわずかしかありません。既に大国アメリカと開戦してしまい、一刻も早い新鋭機の配備を望む軍からのプレッシャーがかけられては尚更です。しかし主任設計者小山悌をはじめとする中島設計陣はこの難題に挑戦し、早くも 1943 年 4 月には試作機の初飛行に漕ぎ着けることに成功しました。
 疾風のデザインは前作である「隼」「鍾馗」の血脈を引き継いでいますが、より一層洗練され精悍なものになっています。一見してわかる特徴は先端を切り落としたような寸詰まり気味の主翼形状で、伝統的な旋回戦闘より高速一撃離脱時の舵の効きを重視していることが伺えます。また他の日本機に比べコクピットが後方寄りになっていますが、これは胴体内タンクの容積をできるだけ大きく取ることで防弾処理によるタンク容量減少を相殺するための設計であり、落下タンク併用時の航続距離は 3000Km 近くに達していました。

 キ-84 計画の中枢となったのは、同じ中島飛行機で開発された新鋭 2000 馬力エンジン「ハ-45」でした。海軍採用名「誉」としても知られるこのエンジンは零戦・隼の心臓を担ったハ-25「栄」1000 馬力をベースに開発されたもので、小直径・少排気量ながら大馬力を引き出すという意欲的なコンセプトのエンジンでした。誉の目指した性能がどれくらい極端なものだったか、他国の同等品と比べてみると一層はっきりします。

エンジン出力(hp)直径(mm)排気量(l)重量(Kg)直径あたり出力排気量あたり出力重量あたり出力
誉(日本)1900118035.8830 1.6153.12.29
BMW801(独)1800130741.81213 1.3843.11.48
R-2800(米)2000132045.91000 1.5243.62.00
Centaurs(英)2500140553.61269 1.7846.61.97

 しかし、この性能を達成するため誉は極めて精緻な加工と綿密な整備・高品質のオイルや燃料を必要とするデリケートなエンジンになってしまい、これはのちに疾風が戦場に送られたとき深刻な問題として顕在化することになります。戦局の悪化は材質・燃料・オイルなどの品質低下となって更なる性能低下を招き、誉は実質 1600〜1800hp というカタログ値を大幅に下回る出力での運転を余儀なくされました。そして、このツケは最後に前線で「疾風」を整備する整備員達、それに乗って戦う搭乗員達のところに回ってゆくことになるのです。
 慢性的エンジントラブルに加え着陸脚の折損、プロペラや機関砲の動作不良にも悩まされながら、それでも「疾風」は押し寄せる連合軍相手に最後の奮戦を見せました。疾風と並び称される海軍の「紫電改」418 機(「紫電」を含めて 1433 機)に対し、3514 機という生産数からしてもその貢献度の違いは明らかです。また、大戦末期には少なからぬ数の「疾風」が爆弾を装着し、片道の体当たり攻撃にも出撃しています。

 戦後米軍に引き渡されテストされた「疾風」は、日本国内における記録値 624Km/h を大幅に上回る 687Km/h という速度を発揮し、彼等がまだ戦線に投入していなかった新鋭機 P-47N および P-51H に対してさえ「水平速度と急降下以外全ての性能で優る」と評価され、最良の日本戦闘機であると賞賛されています。
 しかし多くの日本機と同様、米軍に捕獲あるいは引き渡された疾風にもスクラップ化の運命が待っていました。その中でフィリピンで捕獲された 1466 号機だけは航空博物館主エド・マロニー氏の目に留まってスクラップを免れ、苦難の修復作業のあと 1963 年には再び大空へと返り咲きます。そして 1973 年には日本への里帰り飛行を実現する事になるのですが、これが母国における「疾風」最後の飛行となってしまいました。
 里帰り飛行から間も無い頃、博物館資金難のためもあり「疾風」は日本に売却されたのです。マロニー氏にしてみれば生まれ故郷に返すという意味もあったのでしょうが、これは不幸な決定になってしまいました。当時の…いや、現在でも日本には、操縦が難しく整備に膨大な費用のかかる復元大戦機を飛行状態で受け入れる素地はなかったのです。

 この「疾風」は所有者を転々としたあと、現在は鹿児島県知覧の特攻平和会館に展示されています。輸送の過程で主翼桁を切断しボルト止めにしたという説もありますが、真偽のほどは定かではありません。しかし何十年も放置された「誉」エンジンはそう簡単に回らない状態にある事は確かで、この機体をもう一度飛行状態に戻すには大変な資金と労力が必要でしょう。もし仮に飛行状態に戻したとして、一体どこの誰が保管し整備できるのか…もし物好きな篤志家が名乗り出たとしても、彼の死後機体が再び同じ運命を辿らないという保障はありませんし…。。
 それでも旧軍兵器が粗大ゴミ同然に扱われることも珍しくない今の日本で、屋根付きの施設に公開展示されている「疾風」はまだ幸せと言わねばならないのかも知れません。せめてこの「最後の翼」が粗末に扱われることのないよう、かつて持てる力の全てを賭けた技術者や整備員や搭乗員達の思い出を何時までも語り続けてくれるように願ってやみません。

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